三陸書房
連載 ふるさとの海の物語 第18回
私の愛読書
吉田満『戦艦大和ノ最期』 1991年11月
須賀敦子『ミラノ 霧の風景』 1991年12月
正岡子規『病牀六尺』ほか 1992年1月
堀米庸三『中世の光と影』 1992年2月
追悼開高健 1992年3月
ピート・ハミル『ニューヨーク・スケッチブック』 1992年4月
井深大『わが友本田宗一郎』 1992年5月
フランクル『夜と霧』 1992年6月
山本義隆『知性の叛乱』 1992年7月





吉田満『戦艦大和ノ最期』
1979年に五十六歳で逝った吉田満氏の『戦艦大和ノ最期』(講談社刊)を、「真珠湾五十年」ということを機に、久しぶりに読んだ。生涯かけて繰返し読もうと心に決めた本の一冊で、初読の際の昂奮が思い返されるとともに、やはりその折と同じく、身内を貫き通るものをしばしば覚えた。
著者は学徒出陣で少尉に任官、副電測士として「大和」乗組みを命ぜられ、往路のみの燃料を搭載しての特攻出撃から戦闘・撃沈に至る、艦指揮の最枢要の位置にあって哨戒直に立ち、隈なく事実の推移を見届けた人物。当時二十二歳。「重畳セル僥倖」に恵まれて生還し、終戦直後「戦いの中の自分の姿をそのままに描こうと」本書を著した。
これが実際、真率にして凛とした叙事詩の格調を持つ貴重な記録文学となったのである。ところが、発表当時、「軍国精神鼓吹の小説」だとの批判にさらされたという。事実、GHQの検閲で雑誌掲載稿は全文削除となっている。本書の内実を見ようとしない、為にする暴論と力の行使のあったことが窺える。
著者は、死闘の果ての一齣をこう記す──「倉皇トシテ脱出セントスル者アリ イヅレモ佐官級ノ古強者ナリ/殆ンド水平ニ近ク傾ケル『ラッタル』ヲイザリツツ、振向キテ我ラヲヌスミ見ル/配置ヲ去リテ何処ニ行カントスルヤ 他ニフサハシキ死処ノアリトイフヤ/去ル者ハ去ルベキナリ タダコノ得難キ死生ノ寸秒ノ間、彼ラガ心中些カノ悔恨ナキヤヲ想フ/我ラ幸ヒニシテコノ時ニ安ンズ 何ニカ感謝スベキ」。
言々肺腑を衝くものといえないだろうか。
        『出版ダイジェスト』第1401号、1991年11月21日、「句読点」)




須賀敦子『ミラノ 霧の風景』
仕事柄もあって、何冊か同時に分野の異なる本をかじり読みすることが、当り前みたいになっている。しかし時として、他の本はうっちゃって割けるだけの時間をすべてそのために割きたくなる本というものがある。
ごく最近では、イタリア文学者の須賀敦子氏の初のエッセイ集という『ミラノ 霧の風景』(白水社刊)がそれで、講談社エッセイ賞、女流文学賞を相次いで受賞したというのも納得がいく。
イタリアに住んだ十三年間の折々を追想する12の章から成るこの本は、感傷を排した、読み手の想像力を喚起する体の、躍動感のある文章をもって、町や人、文学のこと、イタリア人の御主人との暮しや仕事のことなどをみずみずしく想起していて、最後の頁まで惹きつけずにはいない。わけても印象的なのは、友人たちの姿である。ひとりひとり、さまざまな表情を呈し、とりどりの言葉を発しつつ、生ある者が退っ引きならず引き受けねばならぬたぐいの孤独を、ふと垣間見せているように感じられる。それはとりもなおさず、著者がそのように把捉し得るまでに人々とのふれあいが並々ならぬこと、著者の人々を見る眼が深くこまやかなことを証し立てるものにほかならないのだが、ともあれ、この群像は忘れがたい。
そのひとり編集者ガッティは、「夫を亡くして現実を直視できなくなっていた」著者を、こう言って「いましめた」という、「睡眠薬をのむよりは、喪失の時間を人間らしく誠実に悲しんで生きるべきだ」と。人を鼓舞する、これほどに心こもる美しい言葉を知らない。
        『出版ダイジェスト』第1406号、1991年12月21日、「句読点」)




正岡子規『病牀六尺』ほか
昔、ある言葉を新聞で見かけて動かされ、直ちに採った切抜きが今でも残っている。正岡子規の言葉である。
「余は今まで禅宗のいはゆる悟りという事を誤解して居た。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居ることであつた」。
これぞ活眼というものか、そう思いつつも、つい最近まで、出典に当ってみようとはしなかった。
子規はもとより有名な俳句・短歌の革新者、文学史上に占める位置は大きい。明治35年満三十五歳になる直前に死去するまでの、脊椎カリエスで病牀に釘づけになった六、七年の間の働きは、特に目ざましい。さきの一文を収める『病牀六尺』は、最晩年新聞に毎日連載された単文随筆集で、死の二日前まで書かれた、と事典等ではいう。今回、この本ほか随筆集をあれこれ読んで、驚くばかりであった。
文章が全体に爽やかで、快活な意力に満ち、気韻が徹っている。痛苦を叫びはしても、決してかこつことはなく、潔い。「試に我枕もとに若干の毒薬を置け。而して余が之を飲むか飲まぬかを見よ」(『墨汁一滴』)というような記述も間々ありはするが、トーンは変らず、そうした精神の姿勢が何度かの危機を克服したかと思われる。話題は奔放なまでに多彩で、まわりの何でもないように見えたものにも美を見出しながら、実に魅力的な、練り上げられた「写生文」で趣味深く叙している。子規にあっては切実に、表現することが即、生きることなのであった。
子規の大きさは一入であった。
       (『出版ダイジェスト』第1409号、1992年1月21日、「句読点」)




堀米庸三『中世の光と影』
1966年11月末、北イタリア、雪に覆われたアペニン山地の廃墟のなかを歩き廻っていた足が、ある確信に達して立ち止った。
「こここそハインリヒ四世が裸足で雪中に立ち、赦免を乞いつづけた場所であると思われる。……西洋中世史に志して三十余年、念願かなってカノッサを訪れることができた私が、こともあろうに、九百年前ハインリヒ四世が立っていたその同じ場所に、しかも当時と同じく雪のなかに立っているのだ」。
著者は堀米庸三(1913-75)。紀行をないまぜた歴史叙述の名著『中世の光と影』(講談社学術文庫)の一節、有名な「カノッサの屈辱」に触れたくだりである。かつて本書の光彩陸離とした説得力のある叙述を読み進んでここに至った時、犀利な頭脳の突然のナイーヴな述懐に胸を衝かれた。
堀米庸三が中世史専攻を選んだのは、第一次大戦後の中世暗黒論批判など中世再評価の気運を知ったからであったという。そして死去直前の仕事が、NHK放映『西欧精神の探究──革新の十二世紀──』の編纂である。「素人の域を一歩も出なかった」研究水準から出発し、古典古代的でも、ルネサンス的でもない、中世独自の文化が存在し、それこそがヨーロッパの起源なのであり、その核心となるのが12世紀だと見定めるまでの、この歴史家の足どりは、「日本人の第二の自我」ヨーロッパに正対した一個の知性の活動記録としても貴重である。
カノッサ事件はかくも重要な12世紀を開く基となったもの、いわば歴史のどまん中に立っての感慨であった。
       (『出版ダイジェスト』第1412号、1992年2月21日、「句読点」)




追悼開高健
作家開高健が逝って、二年三カ月になる。昨年11月、全集が新潮社から刊行され始めたが、これと前後して、牧羊子編『悠々として急げ 追悼開高健』(筑摩書房)が上梓され、谷沢永一『回想 開高健』、および向井敏『開高健 青春の闇』が雑誌に載り、この2月に相次いで本になった(新潮社、文藝春秋)。
「彼と密着した、それからが、私の、はじまり、だった」と、一語一語大理石に彫りつけるように、人生最大の喜びであり、恵みであった交わりについて、只事ならず、真情傾けて語った谷沢氏の本と、傑出した友について篤実に語った向井氏の本は、作家の習作期の疾風怒濤を活写していて、追悼文集ともども、開高文学の読者に裨益するところ大であろう。
それだけではない。「作家と作品」は無論のこと重要であるが、それとは一応異なる心惹かれるものが、これらの書物に遍満している。ほかならぬ開高健そのひとの人間像である。一つだけ、追悼文集から引く。
不治の病にあった高橋和巳を、高橋と昵懇の作家三人と病室に見舞った時のことである。重苦しい気持を抑えて何くれと明るく言葉をかける三人とは別に、最後に入室した開高健は、入口のところから動かず、一言も発しない。十分ほど経過し退出の挨拶が始まったその時、彼は陰から半歩踏み出し病床の人にむかって叫んだ。「おお、眼が輝いとる、大丈夫やで! 人間、眼が輝いとる間は、絶対大丈夫やで!」そして皆と病院の外に出ると、押し黙ったまま、ひとり別れて行った、という。(柴田翔氏の文より)
       (『出版ダイジェスト』第1416号、1992年3月21日、「句読点」)




ピート・ハミル『ニューヨーク・スケッチブック』
ニューヨークのナイトクラブに、美貌と気立ての良さと愛すべき粗忽さのゆえに誰からも好かれた、赤毛の大柄なショーガールがいた。
歌手志望の若い小男と“ぶつかって”知り合い、生活を共にするようになったが、男の自立への欲求から出た窮策のために、男は殺人罪で刑務所、女もこの都会を離れることとなった。女の身に二度の結婚、夫の死、三人の子供の成人という時間が経過し、太平洋岸でひとり暮しをしているところへ、電話がかかる。
刑期を終えたばかりの男からで、女は動転してテーブルにぶつかる。その日の夜にも来ると聞いて、また半回転して椅子からずり落ちながら、飛行機の便を壁に書きなぐる。電話を終え、茫然と立ち尽したあと、彼女はさっと自分の顎よりも高く脚を蹴りあげた──。
好きな短篇集、ピート・ハミルの『ニューヨーク・スケッチブック』(高見浩訳・河出文庫)のなかでも一番好きな第23話の粗筋である。胸に沁み入る話は、この他にもかなりある。
序文にいう、「ここにおさめた物語は、一九六〇年代に入って書きはじめた。その頃私は、恐るべき頻度で起る戦争、暴動、暗殺、デモの取材にあたっていた。……しかし、自分の周囲には依然としてよりささやかなドラマを生きている人間たちがいることを、私は一方で承知してもいた。マーティン・ルーサー・キング〔牧師〕が虫の息でモーテルのバルコニーに倒れていたとき、同じメンフィスには、日なたで車を洗いながら妻の浮気に心を痛めていた男もいたのである」。
この視点を銘記したい。
       (『出版ダイジェスト』第1421号、1992年4月21日、「句読点」)




井深大『わが友本田宗一郎』
井深大氏の『わが友本田宗一郎』(ごま書房)の評判を聞いて読んでみたところ、当初の軽い気持が吹き飛んでしまった。
八十三歳の著者が、八十四歳で逝った四十年来の「心の盟友」の、技術者としての評価を正当なより高いものにしようと執った筆は、掛替えのない存在に先立たれた自らの悲しみを抑えながら、しかし密やかな慟哭を時に漂わせつつ、その念慮がどこまでも清澄であるからでもあろう、一個の輪郭の明確な人物像を伝えている。「戦後の日本で“物”を本当に作ったのは本田宗一郎とソニーの井深大」と称される、共通項を多く持つ者同士の理解の深さは、余人の及ばぬものがあろう。
本田の会社経営上のパートナーにして友人の藤沢武夫もまた、別な形での強力な理解者であったようだ。その追想によると、会社は創業ほどなく、自分も女房役として入社間もない1950年冬、受注を見込んでアメリカ人バイヤーを浜松で接待中、その人が便壷に入れ歯を落した。「すると社長は裸になって、キンカクシから下におりて取ってきた。この男にはかなわねえと思った。体がふるえてくるような感じだった。これが私の一生を支配した」(本田『得手に帆あげて』三笠書房、資料)。実際、その進退の見事さで世間を唸らせたという1973年の本田の社長退任に、副社長藤沢もまた行動を共にするまで、藤沢が社長印を預かるという信頼関係を二人は持っている。
友人を見ればその人の人物がわかるとよくいわれる。夢を次々に実現させた本田宗一郎という個性の幅と厚みが思われてならない。
       (『出版ダイジェスト』第1424号、1992年5月21日、「句読点」)




フランクル『夜と霧』
生を享けている身の不思議さ、貴さを深く思わせられる本に出会った。前々から有名な本で、気にはかけながらも敬遠していたのであるが、読んで、大切な本となった。V・E・フランクルの『夜と霧』(霜山徳爾訳、みすず書房)である。ドイツ語原題は「一心理学者が強制収容所を体験する」の意。現在は、これを副題に「……それでも人生を肯定する」の意の表題で改訂版が出ている。
三年にわたってこの世の地獄を経験し、その間に妻をはじめ家族のほとんどを失った著者が、「強制収容所にずっと長く留まることが人間に与える典型的な性格特徴を、心理学的に描写し、精神病理学的に説明しようとする試み」として著した本書は、邦訳題名から受けるジェノサイドの感じとは異なり、文学的修辞、哲学的明察に富む、鮮烈な人間学の書であった。
時々刻々の死の危険の下、いわば Jemand (誰か或る人)だった人間が、「文字どおりあらわな裸の存在」の Niemand (どこの誰でもない人)に貶められ、内面の崩壊、自己放棄が進行する限界状況のなかで、一体何が人々の生きる支えとなったのか。著者はこう結論する──人生から何を我々は期待できるかではなく、人生が何を我々から期待しているかが問題なのだ。人生の意味の問題に正しく答えることこそ人生。唯一掛替えのない各人が、苦悩に対して世界でただ一人一回だけ立っているという意識をもってこれを担うことのなかに、その人が独自に挙げる成果へのただ一度の可能性が存するのである。
人間たることの誇りが脈打つ。
       (『出版ダイジェスト』第1427号、1992年6月21日、「句読点」)




山本義隆『知性の叛乱』
ある宗教家の書いた随筆(1970年)を読んでいるうち、思いもかけず、山本義隆東大全共闘代表が造反教師の集会に寄せたという次の文にぶつかった。「自らの闘いをたたかおうともしないで、君たちの純粋な気持はよくわかるというような、わけ知り顔をする教師は、自分たちには無縁の存在でしかない」──。まざまざと、あの60年代末の1月にテレビ画面に映し出された「安田講堂攻防戦」が蘇った。
山本氏はこの二十年余、マスコミの取材に一切応じず、物理学者に徹して、予備校講師をしながら専攻分野に限った著作と翻訳に従事していて、全共闘運動に関わる著作としては、69年の潜伏中に刊行の『知性の叛乱』(前衛社)のみのようである。
で、早速この本を読んでみた。そして書物が時として、いかに情報収納力を有し伝達有効性を発揮するものであるか、感じ入るばかりであった。もっとも著者の沈着さと文章表現の程のよさが多分にそう思わせもするのだろうが。
二十七歳の著者は、たとえば或る有名法学部教授を批判するのに、正面から、すなわちその教授の著書の論理に教授自身の発言と行動を照らしてその背反を衝き、権威主義者の本性を暴いて、結局この教授(その他も)にとっては「学問や思想は生き方とは無関係なのだ」と断ずる。その一方、自己のうちにも矛盾を認めて、「自らを変革の『客体』とし得ない者は変革の『主体』にはなり得ない」、「東大闘争の総括は活字によってではなく、今後の闘いによって、生き方によって表される」と宣言する。
闘いは今もなお、と信ずる。
        『出版ダイジェスト』第1431号、1992年7月21日、「句読点」)




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