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《新版 万葉秀歌365》11月

11月1日(
) 家にあれば笥に盛る飯を草枕 旅にしあれば椎の葉に盛る☆── 有間皇子〔巻二・142〕
         いへにあれば けにもるいひを くさまくら たびにしあれば しひのはにもる  ありまのみこ

   2日(
) 岩代の浜松が枝を引き結び 真幸くあらばまた還り見む☆── 有間皇子〔巻二・141〕
         いはしろの はままつがえを ひきむすび まさきくあらば またかへりみむ  ありまのみこ

   3日(
) 岩代の岸の松が枝結びけむ 人は帰りてまた見けむかも☆── 長意吉麻呂〔巻二・143〕
         いはしろの きしのまつがえ むすびけむ ひとはかへりて またみけむかも  ながのおきまろ

   4日() うらさぶる心さまねしひさかたの 天のしぐれの流れあふ見れば☆── 古歌〔巻一・82〕
         うらさぶる こころさまねし ひさかたの あめのしぐれの ながれあふみれば  ながたのおおきみ

   5日(
) 青嶺ろにたなびく雲のいさよひに 物をそ思ふ年のこの頃☆── 東歌〔巻十四・3511〕
         あをねろに たなびくくもの いさよひに ものをそおもふ としのこのころ  あずまうた

   6日(
) 春日山霞たなびき心ぐく 照れる月夜にひとりかも寝む☆── 大伴坂上大嬢〔巻四・735〕
         かすがやま かすみたなびき こころぐく てれるつくよに ひとりかもねむ  おおとものさかのうえのおおいらつめ

   7日(
) 物思ふと人に見えじとなまじひに 常に思へりありそかねつる☆── 山口女王〔巻四・613〕
         ものもふと ひとにみえじと なまじひに つねにおもへり ありそかねつる  やまぐちのおおきみ

   8日(
) たらちねの母が手離れかくばかり すべなきことは未だせなくに☆── 柿本人麻呂歌集〔巻十一・2368〕
         たらちねの ははがてはなれ かくばかり すべなきことは いまだせなくに  かきのもとのひとまろのかしゅう

   9日(
) 恐みと告らずありしをみ越路の 手向に立ちて妹が名告りつ☆── 中臣宅守〔巻十五・3730〕
         かしこみと のらずありしを みこしぢの たむけにたちて いもがなのりつ  なかとみのやかもり

  10日(
) わが背子が帰り来まさむ時のため 命残さむ忘れたまふな── 狭野茅上娘子〔巻十五・3774〕
         わがせこが かへりきまさむ ときのため いのちのこさむ わすれたまふな  さののちがみのおとめ

  11日(
) 葦辺行く雁の翅を見るごとに 君が佩ばしし投箭し思ほゆ☆── 防人の妻〔巻十三・3345〕
         あしへゆく かりのつばさを みるごとに きみがおばしし なげやしおもほゆ  さきもりのつま

  12日(
) 筑波嶺にかか鳴く鷲の音のみをか 泣き渡りなむ逢ふとはなしに☆── 東歌〔巻十四・3390〕
         つくはねに かかなくわしの ねのみをか なきわたりなむ あふとはなしに  あずまうた

  13日(
) 沖つ波辺波静けみ漁りすと 藤江の浦に船そ騒ける── 山部赤人〔巻六・939〕
         おきつなみ へなみしづけみ いざりすと ふぢえのうらに ふねそさわける  やまべのあかひと

  14日(
) 葦辺行く鴨の羽がひに霜降りて 寒き夕は大和し思ほゆ☆── 志貴皇子〔巻一・64〕
         あしへゆく かものはがひに しもふりて さむきゆふへは やまとしおもほゆ  しきのみこ

  15日(
) 日並の皇子の命の馬並めて 御猟立たしし時は来向ふ☆── 柿本人麻呂〔巻一・49〕
         ひなみしの みこのみことの うまなめて みかりたたしし ときはきむかふ  かきのもとのひとまろ

  16日(
) 朝に行く雁の鳴く音は吾がごとく 物思へかも声の悲しき── 作者未詳〔巻十・2137〕
         つとにゆく かりのなくねは わがごとく ものおもへかも こゑのかなしき  さくしゃみしょう

  17日(
) 古もかく聞きつつか偲ひけむ この布留川の清き瀬の音を☆── 作者未詳〔巻七・1111〕
         いにしへも かくききつつか しのひけむ このふるかはの きよきせのとを  さくしゃみしょう

  18日(
) 旅人の宿りせむ野に霜降らば 吾が子羽ぐくめ天の鶴群☆── 遣唐使随員の母〔巻九・1791〕
         たびひとの やどりせむのに しもふらば あがこはぐくめ あめのたづむら  けんとうしずいいんのはは

  19日(
) 筑紫辺に舳向かる船の何時しかも 仕へ奉りて国に舳向かも☆── 防人 若麻続部羊〔巻二十・4359〕
         つくしへに へむかるふねの いつしかも つかへまつりて くににへむかも  さきもり わかおみべのひつじ

  20日(
) 恋にもそ人は死にする水無瀬川 下ゆ吾痩す月に日に異に☆── 笠女郎〔巻四・598〕
         こひにもそ ひとはしにする みなせがは したゆあれやす つきにひにけに  かさのいらつめ

  21日(
) わが背子が着せる衣の針目落ちず こもりにけらし我が情さへ☆── 阿倍女郎 〔巻四・514〕
         わがせこが けせるころもの はりめおちず こもりにけらし あがこころさへ  あべのいらつめ

  22日(
) 忘るやと物語りして心遣り 過ぐせど過ぎずなほ恋ひにけり☆── 柿本人麻呂歌集〔巻十二・2845〕
         わするやと ものがたりして こころやり すぐせどすぎず なほこひにけり  かきのもとのひとまろのかしゅう

  23日(
) 誰ぞこの屋の戸押そぶる新嘗に 我が背を遣りて斎ふこの戸を☆── 東歌〔巻十四・3460〕
         たれぞこの やのとおそぶる にふなみに わがせをやりて いはふこのとを  あずまうた

  24日(
) よしゑやし恋ひじとすれど秋風の 寒く吹く夜は君をしそ思ふ☆── 作者未詳〔巻十・2301〕
         よしゑやし こひじとすれど あきかぜの さむくふくよは きみをしそおもふ  さくしゃみしょう

  25日(土) 百船の泊つる対馬の浅茅山 しぐれの雨に紅葉たひにけり☆── 遣新羅使人〔巻十五・3697〕
         ももふねの はつるつしまの あさぢやま しぐれのあめに もみたひにけり  けんしらぎしじん

  26日(
) 佐野山に打つや斧音の遠かども 寝もとか児ろが面に見えつる☆── 東歌〔巻十四・3473〕
         さのやまに うつやをのとの とほかども ねもとかころが おもにみえつる  あずまうた

  27日(
) 吉野なる夏実の川の川淀に 鴨そ鳴くなる山陰にして☆── 湯原王〔巻三・375〕
         よしのなる なつみのかはの かはよどに かもそなくなる やまかげにして  ゆはらのおおきみ

  28日(
) 天地を訴へ乞ひ祷み幸くあらば また還り見む志賀の唐崎☆── 作者未詳〔巻十三・3241〕
         あめつちを うれへこひのみ さきくあらば またかへりみむ しがのからさき  さくしゃみしょう

  29日(
) 秋山のしたひが下に鳴く鳥の 声だに聞かば何か嘆かむ☆── 柿本人麻呂歌集〔巻十・2239〕
         あきやまの したひがしたに なくとりの こゑだにきかば なにかなげかむ  かきのもとのひとまろのかしゅう

  30日(
) み吉野の玉松が枝は愛しきかも 君がみ言を持ちて通はく☆── 額田王〔巻二・113〕
         みよしのの たままつがえは はしきかも きみがみことを もちてかよはく  ぬかたのおおきみ







〈今日の秀歌メモ〉

11月1日
「挽歌」中、斉明天皇の代(655─61年)の歌。

新日本古典文学大系『萬葉集 一』によれば、
題詞(訳)「有間皇子が自ら悲しんで松の枝を結んだ時の歌二首」の第二首(明
日、第一首を掲載)。
「有間皇子は、斉明天皇に対する謀叛の咎によって、斉明天皇四年(658)十一
月五日、蘇我赤兄(そがのあかえ)に捕えられ、九日、天皇の湯治先、紀の湯に
護送されて皇太子中大兄の尋問を受け、翌十日、藤白坂(ふじしろのさか)で絞
首された(日本書紀)」。

伊藤博『萬葉集釈注 一』によれば、
「赤兄によって囚われの身となった有間皇子は、三人の臣とともに、十一月九日、
紀伊の湯に送り届けられた。141〜2の歌は、この往路においてうたわれたもので、
おそらく十一月八日あたりの詠であろう」、
「第二首は、
  家にいる時にはいつも立派な器物(うつわもの)に
  盛ってお供えする飯(いい)なのに、その飯を、
  今旅の身である私は椎の葉に盛る。
の意。第二・五句の『盛る』を『食べる』意とし、皇子の身の、旅の不自由を告
げる歌と見る説もある。しかし、旅の神祭りを示す第一首と組になっていること
からは、盛り上げて神にお供えする意に理解すべきであろう。運命の旅の精神的
な苦しみを、境の神への手向(たむ)けの仕草に託して述べたもので、皇子とは
いえ、囚われの身では思う存分の神祭りもできず、したがって、再びこの地に帰
ってくることも望みえない悲しみが秘められている」。


11月2日
昨日に引きつづき、
題詞(訳)「有間皇子が自ら悲しんで松の枝を結んだ時の歌二首」の第一首。

伊藤博『萬葉集釈注 一』によれば、
「 ああ、私は今、岩代の浜松の枝と枝とを引き結んで行く、
  もし万一願いがかなって無事でいられたなら、
  またここに立ち帰ってこの松を見ることがあろう。
というのが第一首の意味。『岩代』は、田辺湾をはさんで牟婁(むろ)の湯(湯
崎温泉)を遠く望む、境の地。誰もが旅の安全を祈る地である(一・10参照)。
皇子はここで、報いがないことを先刻承知しつつ松の枝を結んだ。松の枝を引き
結ぶ行為が、無事、安全を祈る呪的習俗の一つであることはいうまでもない」、
「二首〔141、142〕ともに、『悲し』とも『苦し』とも、はたまた『悔し』とも
『恨めし』とも、感色ある語はいっさい用いず、事実だけを、あるいは事実に伴
う推測だけを述べている点に、かえって深い哀韻がこもる」。

同書はまた、
「第三十六代孝徳天皇の白雉四年(653)、難波の宮にあった孝徳帝と〔共に大
化の改新の事業をおこなった〕皇太子中大兄皇子とのあいだで、遷都をめぐって
意見が衝突」、中大兄皇子は、母の皇極上皇〔大化元(645)年皇位を軽皇子
(孝徳帝)に譲位〕、妹の皇后、弟の大海人皇子、付き従う公卿大夫、百官をこ
とごとく引き連れて飛鳥の宮に移った。「ひとりとり残されて皇位の実権を失っ
た孝徳帝は、……翌五年十月十日、難波の宮で孤独な生涯を閉じた。……孝徳帝
唯一の子、時に、とって十五歳の有間皇子の生涯は、すでにこの時に暗い大きな
星を負った。
 母が皇女の身分ではないとはいえ、先帝のたった一人の皇子である。皇位継承
の有力候補であったというべく、この皇子の高邁な成長は、孝徳帝を死に追いや
った中大兄皇子にとっては不気味というほかはない。早晩、何らかの方法で処置
しなければならない。その気配を身にしみて感じとっていたのは、当の有間皇子
であった。皇子は、斉明三年(657)の九月、狂人を装い、治療のためと称して、
紀伊(き)の牟婁の湯に遊んだ。そして、帰京に及び、その地を見ただけで病が
おのずから消え去ったと、天皇に報告したという。斉明女帝〔孝徳帝死後、皇極
が重祚(ちょうそ)〕は大いによろこび、この地への行幸をひそかに決意した。
 翌四年十月十五日、女帝は紀伊の湯に行幸した。すぐる五月、孫の建王(たけ
るのみこ)を八歳で失った傷心を癒したい気持も女帝にはあった。蘇我赤兄(そ
がのあかえ)を留守官とし、皇太子中大兄ら宮廷人の多くが従った。十一月三日、
都に残った有間皇子に、留守官赤兄が、天皇の失政三つを語り告げた。大きく倉
庫(くら)を起(た)てて、民財を積(つ)み聚(あつ)めること、長(とお)
く渠水(みぞ)を穿(ほ)って、公粮を損(おと)し費(つか)うこと、舟に石
を載(つ)んで運び、丘を作ること──この三つであった。日頃、赤兄が善意あ
る態度で接してくれることに心を許した有間皇子は、「吾が年、はじめて兵(い
くさ)を用ゐるべき時なり」と発言した。年すでに十九、今こそ兵を挙げて皇位
を物にすべき時だというのである。
 一日おいての十一月五日、有間皇子は赤兄の家を訪れ、楼(たかどの)に登っ
て事を謀った。しかし、謀ろうとするや、皇子の夾膝(〈おしまずき〉脇息)が
折れた。皇子は事の成功に至らぬ前兆を見て取り、この秘密は誰にも洩らさない
ことを誓いあった上で事を中止し、自宅に帰って床についた。夜半、外が騒がし
い。赤兄の遣わした軍勢に皇子の家(奈良県生駒市にあったという)は包囲され
ていたのである」。
「紀伊の湯に到着した九日のことであったろうか。皇太子みずからの訊問をうけ
た有間皇子は、たった一言、『天と赤兄と知る。吾れ全(もは)ら解(し)ら
ず』と答えて、黙った。『天と赤兄とだけが事情を知っていよう。自分にはまっ
たく解しえない事だ』というのである。寸鉄、人を刺すという言葉がある。この
一言は、錐のごとく、皇太子の心に刺さったのではなかろうか。
 ……
 有間皇子は、遠く紀伊の湯に運ばれて、一泊か二泊かしただけで、ただちに、
都へ運び帰される身となったらしい。そして、その途中の十一月十一日、藤白坂
(海南市藤白)で絞殺された。皇太子中大兄の追手、……という者の手にかけら
れたのである。再度記せば、時に年十九。満では十八歳の青年であった」。


11月3日
前歌に引きつづき、伊藤博『萬葉集釈注 一』によれば、
題詞「長忌寸(いみき)意吉麻呂、結び松を見て哀咽(かな)しぶる歌二首」の
第一首、
「有間皇子事件は、のちの人びとの深い同情を誘った。右の四首〔意吉麻呂の二
首と、山上憶良と柿本人麻呂(歌集)の各一首〕は、いずれも文武朝(697〜707
年)の作で、岩代の結び松を通して有間皇子を追慕した歌である。……
 第一首は、
  岩代の崖のほとりの松の枝、この枝を結んだという
  そのお方は、立ち帰って再びこの松を
  ご覧になったことであろうか。
という意。続く第二首〔144 岩代の 野中に立てる 結び松 心も解けず い
にしへ思ほゆ〕は、
  岩代の野中に立っている結び松よ、
  お前の結び目のように、私の心はふさぎ結ぼおれて、
  昔のことがしきりに思われる。
という意。前者は結び松を静かに見つめながら故人を思い、後者はその結び松に
呼びかけながら追懐に暮れており、松を通して悲しみがこみあげる順序に沿うか
たちで抒情が展開されている。意吉麻呂は、ここで、有間皇子がこの結び松を再
び見ることはなかったものとしてうたっている。そう思いこむ方が追慕の情が高
まることを無意識のうちに感じてのことであろう。以下、山上憶良も柿本人麻呂
も、意吉麻呂と同じ考えに立って皇子を偲んでいる。皇子の悲劇は、〔人麻呂歌
題詞中の〕大宝元年(701)からは四十年ほど昔のことになる」。


11月4日
うらさぶ──「[心寂ぶ]心の中で寂しく感じる」(新潮国語辞典)。
さまねし──「(「さ」は接頭語)多い。広くゆきわたっている」(同上)。

新日本古典文学大系『萬葉集 一』によれば、
「雑歌」を唯一の部立とする巻一の末近く、「和銅五年(712)壬子(じんし)
の夏四月、長田王(ながたのおほきみ)を伊勢の斎宮(さいぐう)に遣はせし時
に、山辺御井(やまへのみゐ)にして作りし歌」という題詞のもとに掲げられる
三首のうちの第二首、
口語訳「心楽しまず淋しい想いで胸があふれるほどだ。
    (ひさかたの)遠い空から、時雨の雨が交差しながら
    流れるように降って来るのを見ると」、
「『しぐれ』は秋冬の雨であるから、題詞の季節と合わない。左注は82、83につ
いて、『御井の歌とは思われない、当時の古歌か』と疑っている。それならば作
者不明の古歌となる。第三句『ひさかたの』という枕詞が、長い糸を引いて蕭々
と降り続く『しぐれ』の実感を巧みに表し得ている。結句は『流らふ見れば』と
訓む通説よりは、『流れあふ見れば』と訓む次点系の訓の方が、語法的にも意味
的にも遙かにすぐれている。万葉集の『しぐれ』は常に淋しく降る情景であり、
視覚の景である。〔後略〕」。

題詞中の「長田王」については、本集9月30日の歌とメモを。
同じく「斎宮」は、「斎宮の居住する所」(新編日本古典文学全集『萬葉集 1』)。

「次点」とは、「万葉集訓点の一。古点以後、仙覚〔せんがく〕の新点までの間、
すなわち平安中期から鎌倉初期にかけて付けられた訓点」(広辞苑)、
ちなみに、「古点」とは、「951年(天暦5)から源順(みなもとのしたごう)ら
梨壺(なしつぼ)の五人が『万葉集』につけた訓点」(同上)。

題詞(目録もほぼ同文)からは明確でないこの歌の作者について、佐佐木信綱 編
著『分類萬葉集』では長田王とし、澤瀉久孝・森本治吉 著『作者類別 年代順 萬
葉集』では長田王および未詳とし、稲岡耕二編『万葉集事典』の「全作者事典」
では不審ありと記しつつ長田王としている。他書もほぼ同様であろう。
伊藤博『萬葉集釈注 一』には、「この三首が詠まれたとされる夏四月にはしぐれ
は降らない。しかも、83の歌に登場する龍田山は奈良西南の山で、伊勢路からは
逆の方向にある。左注に82〜83の二首を古歌の転用と見ているのは正しい。伊勢
に遣わされた長田王が、連れ添った一行と山辺の地で旅の宴を行ない、その座で
新作の81に古歌82〜83をあわせて披露したのであろう」とある。
この伊藤博氏の説に従い、作者名欄を「古歌」とした。


11月5日
「未勘国歌」の「相聞」の歌。

水島義治『萬葉集全注 巻第十四』によれば(摘記引用)、
口語訳「青々とした山の嶺にたなびいている雲のように、
    心定まらずあれこれ思い悩むことです。
    この頃の私は。
〈注〉
青嶺ろ──『ろ』は東国語特有の接尾語。『吾を寝ろ』=『おれと寝ろ』をかけ、
求婚の意味をかけているのかもしれない(中西進『万葉集 全訳注原文付』・日本
古典集成『萬葉集』・日本古典文学全集『萬葉集』など)。
たなびく雲の──以上の上二句、雲が落ちつかずに漂っていることから『いさよ
ひ』を導いている譬喩的序詞。
いさよひに──上からは雲が停滞していることを言い、下へは男の求婚に応じよ
うか、応じまいかと迷っている意。
年の此の頃──『年』は『此の頃』を強めるために用いたもの〔下略〕。
〈考〉
男の歌か、女の心か──一首を、男から求婚された女が、心を決めかねて、この
日頃・月頃を悩んでいると解したが、『青山に靡く雲が漂っているように、私に
靡きながらあの子がためらっているので、不安な物思いをすることだ。この年頃
を』と口訳して、男の歌とする全訳注の解にも惹かれる」。


11月6日
¶11月3日は陰暦九月十三日(十三夜)でした。東京神田の上空は星が全然出てい
ませんでしたが、満ちる寸前の月のみが見事に皓々と照っていました。

作者のいとこであり夫である、大伴家持との相聞歌のひとつ。

全訳読解古語辞典によれば、
心ぐく──「こころぐし[形ク](上代語)心が晴れず悩ましい。せつない。う
っとうしい」、
同書は、文例に本歌をあげ、こう訳している、
 「春日山に霞がたなびいている(のを見ながら私は、)
  心が晴れず悩ましく、照りわたる月夜に
  たった一人で寝ることであろうか」。


11月7日
新編日本古典文学全集『萬葉集 1』によれば、
題詞「山口女王、大伴宿祢家持に贈る歌五首」の第一首、
口語訳「物思いをしているように 人に見せまいと
    わざと 平気なようにふるまっているだけです
    ほんとは死にそうです」、
作者、山口女王については「伝未詳」。



11月8日
作者不明歌巻、巻十一の冒頭「旋頭歌」(17首)の次に位置する「正述心緒」
(もうひとつの、出典未詳のものとは別)の冒頭歌。

たらちねの──「母」にかかる枕詞。

伊藤博『萬葉集釈注 一』によれば、
「一首は、
  母さんの手を離れて物心ついてからというもの、
  こんなにもやるせない思いは、
  いまだかつてしたことがありません。
の意。体験に添っての実感ではあるものの、『恋はすべなし』ということを述べ
た歌で、恋の苦しみの根源を覆いつくしていると見ることができる。つまり、最
初に立てるにはうってつけの作である。すなわち一首は、『正述心緒』の部の冒
頭歌としてこの位置に据えられたことが窺い知られる。……
 巻十一編者が冒頭歌として目をつけただけあって、一首は哀感が底からにじみ
出てくるようなところがあって、なかなかよい。諸注も一様に高く評価している。
中でも最も要を得て迫っているのは、窪田空穂『萬葉集評釈』の『実際に即して
の心で、深いあわれのあるものである。この大観して感性的にいっている詠み方
は、人麿歌集に限られるものである」という発言である。
 一首が女性の立場で詠まれていることは「たらちねの母が手離れ云々」によっ
て明瞭。当時、子どもは男も女も母親の許で育てられたけれども、男性にあって
は、『たらちねの母が手離れかくばかりすべなきこと』の感慨はそぐわない。こ
の微妙可憐な心情はかならず女性のものである。古今の諸注に、これを男性の歌
とする注は一つもない」。


11月9日
これまでたびたび登場した狭野茅上娘子(さののちがみのおとめ 「茅」は写本
により「弟」とも、その際は「…おとがみ…」)の夫の歌。

新日本古典文学大系『萬葉集 三』によれば、
題詞「中臣朝臣宅守の、狭野弟上娘子と贈答せし歌」の、
左注(訳)「右の四首は、中臣朝臣宅守が旅路について作った歌である」とある
なかの第4首。
口語訳「恐れ多いと口にしないでいたのに、
    越路の手向けの神の前に立って、
    妹の名を告げてしまった」、
「勅勘の身ゆえに、恐れ慎むべきこととして、これまで口に出さずにいたのに、
越路の峠に立つと、もはや恋情押さえがたく、思い切ってあなたの名を呼んだと
いう意。愛発(あらち)の峠に立った時の作であろう。初・二句の解につき、武
田祐吉『萬葉集全註釈』は『遠く離れている人の名を呼ぶと、その人の魂が遊離
して呼び寄せられるとする信仰』だと言うが、『かしこまり有て行(ゆく)道な
れば、妹恋しとも言に出さゞりしを、山上に至りて故郷をかへり見て、妹が名を
呼(よび)つるとなり』(橘千蔭『萬葉集略解』)と把握する方が適切である。
『告りつ』の『つ』に抑制を放棄した、作者のやむにやまれぬ心情が窺われる。
原文『美故之治』の『美(み)』は『三』の意で、越前・越中・越後の総称か」。

明日、狭野茅上娘子の歌を掲載します。


11月11日
作者不明の巻十三、雑歌、相聞歌、問答歌、譬喩歌のあと、巻末に位置する挽歌
二十四首の一。

塚本邦雄撰『清唱千首』(冨山房百科文庫)によれば、
「鮮烈でそれゆゑに哀切な投箭の反歌には長歌が先行し、『何時しかと わが待
ち居(を)れば 黄葉(もみぢば)の 過ぎていにきと 玉梓(たまづさ)の 
使(つかひ)の言へば』と、夫の死を知らされる件(くだり)が冒頭に見える。
雁の翅に寄せる思ひが哀悼であり、一首が挽歌であるゆゑんだ。巻十三末尾に近
く掲げられ『この短歌は防人の妻の作りし所なり』の後註〔左注〕あり。挽歌の
圧巻をなす秀作」。

新編日本古典文学全集『萬葉集 3』によれば、
「君が帯ばしし──オバスは、腰の辺りに付ける意の四段動詞オブの敬語形。
投矢──手投げ矢。普通、六〇センチ前後で、三角槍の穂先に似てそれよりやや
小さい鏃(やじり)を付け、本には四枚の羽がある。行軍中は腰に挟んでおき、
接戦の際、近ければ手槍のように握って突き、遠ければ手投げ矢として使った。
『和名抄』に『射遠、止保奈計(とほなげ)』とあるのはこれであろう」。


11月12日
目録『常陸国の相聞往来の歌十首』の一。

水島義治『萬葉集全注 巻第十四』によれば(摘記引用)、
口語訳『筑波山でかかと鳴く鷲のように、
    私はただ声をあげて泣いてばかり過ごすのだろうか。
    あの方に逢うということもなくて。
〈注〉
かか鳴く鷲の──ここまでの上二句、『音泣く』を起こす譬喩式序詞。『かか鳴
く』は鳥や鷲などががあがあ鳴く意の四段動詞(「かか」は擬声語)。『鷲』は
ワシタカ科の猛鳥。イヌワシだろうという推定もあるが(『続万葉動物考』)、
川口爽郎によれば、筑波山にかか鳴く鷲は海鷲と言われる冬鳥──『カムチャツ
カなどで繁殖し、十一月の終わりごろから十二月ごろ渡って来るオオワシ』で、
『現在は比較的北日本に多いとされても極めて少ない。鳴き声はクヮックヮッと
グヮッグヮッの中間音』であるという(『万葉集の鳥』)。
音のみをか泣き渡りなむ──『音泣く』の中に副助詞『のみ』、間投助詞『を』、
疑問の係助詞『か』を挟み込んだ形。『なむ』は『な』(完了『ぬ』の未然形)
+『む』(意志・推量『む』の連体形)。『音泣く』は声を立てて泣く意の四段
動詞。『渡る』は動詞の連用形を承けて、その動作が時間的あるいは空間的に連
続することを表わす。ずっと〜し続ける。一面に〜する。
逢ふとはなしに──『に』は格助詞。『とはなしに』は、〜ということもなく、
の意。
〈考〉
かか鳴く鷲の──序詞に地方色が感じられる歌であるが、防人か衛士、あるいは
調庸を都へ運ぶ運脚にとられたか、それとも都までは行かなくとも徭役や地方軍
団の兵士に徴発されての旅立ちか──これ以外の旅は考えられない──、いずれ
にしても愛する男を旅立たせて、独り鷲の鳴く筑波山麓に寂しく日を過ごさなけ
ればならなかった女の歌と解すべきであろう。佐佐木幸綱が『続万葉動物考』の
『猛禽類は群棲することなく、殊に鷲は大抵一羽だけでいつまでも一ヶ所に静止
し、時々寂しさうな声でカッ、カッ、カッと鳴くものであるから、思ふ人に会は
れず一人して悲しみ泣くといふ歌には誠に相応しい序詞である。この歌を解する
には是非この点まで考慮していただきたいものである』を引き、『鷲の生態と寂
し気な鳴き声を理解に入れた、周到な解釈と思う』と言っているがまさにそのと
おりである』。


11月14日
島木赤彦『万葉集の鑑賞及び其批評(前編)』によれば、
「文武天皇慶雲三〔706〕年難波宮に行幸の時扈従(こじゅう)して作られし歌
である。『葦辺』は水辺の葦であり、『羽がひ』は羽を背上に打ち交してゐるの
である。葦べ行く鴨の翼に夕べの霜がふる。捉ふる所が要を得て、現れる所甚だ
簡明である。下句それを享(う)けてよく据わつてゐる。『は』は多きが中に特
に一つを取り立てた詞であると富士谷御杖(ふじたにみつゑ)は説いてゐる。
『寒き夕は』の『は』が左様に強く響き、『大和し思ほゆ』が八音字余りで更ら
に重く響く。よく据わり得てゐるというたのは、それを指すのである。傑れた歌
の一つである」。

斎藤茂吉『萬葉秀歌』にはこうある。
「志貴皇子の御歌は、その他のもさうであるが、歌詞明快でありながら、感動が
常識的粗雑に陥るといふことがない。この歌でも、鴨の羽交(はがひ)に霜が置
くといふのは現実の細かい写実といはうよりは一つの『感』で運んでゐるが、そ
の『感』は空漠たるものでなしに、人間の観察が本となつてゐる点に強みがある。
そこで、『霜ふりて』と断定した表現が利くのである。『葦べ行く』といふ句に
しても稍(やや)ぼんやりしたところがあるけれども、それでも全体としての写
象はただのぼんやりではない」。


11月15日
稲岡耕二選「万葉集名歌事典─万葉名歌百首」(『万葉集事典』〈学燈社〉所
収)中の、上野 理氏執筆の項によれば、〔以下引用〕
[歌意] 今は亡き日並皇子の尊が多数の騎者を従えて狩りに御出発になられた
時刻が迫っている。
[鑑賞] 「軽皇子(かるのみこ)、安騎(あき)の野に宿る時に、柿本朝臣人
麻呂の作る歌」の題詞をもつ長歌に添えた短歌四首の最終歌。中皇命(なかつす
めらみこと)の宇智野遊猟歌(一・3、4)が舒明天皇を賛美し、朝狩りへの出発
を歌うように、長歌と短歌は、軽皇子を賛美し、軽皇子の朝狩りへの出発を歌う
が、人麻呂は、軽皇子が成人して草壁(日並)皇子の再来を思わせる姿で狩りに
出発したことを主情的に歌おうとする。長歌は、軽皇子が堂々と安騎野に馬を進
め野営するさまを賛美するが、野営の目的を最後に「古(いにしへ)思ひて」と
いう。短歌は、第一首で長歌の軽皇子の父皇太子への思慕を人麻呂たち供奉者の
追慕に置き換え、第二首でその追慕を深める。第三首「東(ひむがし)の野にか
ぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ」は、東方の夜空にわずかに曙
光のさし初めたのを見て、振り返って見た西の空の月の傾きにそれが曙光である
ことを確認して、沈む月に代わって間もなく太陽が昇ることを思い描く。父の草
壁皇子が日並皇子と呼ばれ、日に並ぶ月を連想させる皇太子名であったために、
月に代わる曙光は新しい皇太子(ひつぎのみこ)の誕生を強く暗示する。作者は
荒野における追慕の悲しみを「かぎろひ」の光明によって克服するのである。こ
の最終歌も、亡き皇太子の朝狩りへの出発を歌うように見えるが、軽皇子が父皇
太子の再来を思わせる姿で朝狩りに出発しようとしていることを歌う。軽皇子が
人麻呂らを従えて朝狩りに出発する時は、かつて日並皇子が多数の騎者を従えて
朝狩りに出発した日の出の時刻と定められていた。人麻呂はその時刻が刻々と迫
りくることを東の空に見つめ、胸を高鳴らせている。父と同じように日の出とと
もに出発した軽皇子は出発すると同時に父そのものになるというのであろう。人
麻呂はそうした太子再生の奇跡劇を主情的に歌っている。


11月17日
作者不明歌巻、巻十一の「雑歌」、「河を詠む十六首」の一。

新編日本古典文学全集『萬葉集 2』によれば、
上の句の口語訳、
「昔の人も こうして聞いて 賞(め)でたことであろうか」。


11月18日
稲岡耕二選「万葉集名歌事典─万葉名歌百首」(『万葉集事典』〈学燈社〉所
収)中の、大久保広行氏執筆の項によれば、〔以下引用〕
[歌意] 旅人が夜仮寝(かりね)をする野に霜がおりたなら、我が子を羽で包
みこんでおくれ、空行く鶴の群れよ。
[鑑賞] 「天平五年癸酉(きいう)遣唐使の船難波を発(た)ちて海に入る時
に、親母(おや)の子に贈る歌一首」という題詞をもつ長歌の反歌。天平四年(
732)八月に多治比広成(たじひのひろなり)が遣唐大使に任ぜられ、五年三月
拝朝、四月難波の津より出航し、翌年十一月多禰(たね)島(種子島)に帰着、
七年三月帰京した。その折の難波進発時にある母親が子に詠んだ歌であるが、作
者は未詳。長歌では、鹿の子のような一人子を旅に出し、「竹玉(たかたま)を
しじに貫(ぬ)き垂れ 斎瓮(いはひへ)に 木綿(ゆふ)取り垂(し)でて」
潔斎の限りを尽くして、「我(あ)が思ふ我(あ)が子 ま幸(さき)くありこ
そ」と、ひたすら子の無事を念ずる母親の姿を描く。当該の反歌は一転して、大
陸での冬の旅を想像して、空飛ぶ鶴の群れに我が子を羽で包みこんで守ってくれ
と呼びかける形で、母親の祈りを具象的に展開してみせる。「さきく・ま幸(さ
き)く」は旅の無事を祈る常套語であったが、凍死もしかねない極寒の地を行く
旅の苦しみを具体的に思い描いて、遠い異郷で行路死人になり果てぬよう、それ
からの救済と保護を鶴に委ねたのである。「飢(うえ)」と「寒(こごえ)」と
は生苦の最たるものであったが、官旅であるから、耐えがたい寒さのほうを取り
上げたのだろう。そもそも旅はつらく苦しいものであり、「草枕」という枕詞が
示すように、それは旅の宿り=野宿においてとりわけ顕著である。しかも霜の降
る冬期であればなおさらで、未知の大地での冬の旅という最悪の条件を設定して、
祈る以外には何一つ術(すべ)のないもどかしい自分の代わりとして、思いを鶴
に託したのである。夜の鶴は子を思って鳴くというから(沢瀉久孝『注釈』)、
空から舞い下りて子を温めよという願いは母の心の表現としていかにも適切であ
る。日本の風土・景観に基づいた想像と発想ではあるが、母親の至情を鮮明なイ
メージで歌いあげた佳作となっている。


11月19日
新編日本古典文学全集『萬葉集 1』によれば、
口語訳「筑紫の方に 舳先を向けた船は いつになったら
    務めを終えて 故郷に舳先を向けるだろうか」、
「舳向かる──向カルは向ケルの訛り。
舳向かも──向カモは向カムの訛り」、
作者は「〔上総国(かみつふさのくに)〕長柄郡(ながらのこほり)の上丁〔か
みつよほろ〕」と左注にあるほかは「伝未詳。『羊』の名は天平三年(731)辛
未生れゆえか。それならばこの時二十五歳」。


11月20日
新日本古典文学大系『萬葉集 一』によれば、
「笠女郎の、大伴宿祢家持に贈りし歌二十四首」の一。
口語訳「恋というものによっても、人は死ぬのです。
    (水無瀬川)人知れず私は痩せて行きます。
    月を追い日を追ってますます」、
「『水無瀬川』は表面には見えず水が伏流している川。『下』(目に見えない部
分)を導く譬喩的枕詞。
『死にする』は連体形。上の『そ』を受ける。『死にす』は『死に』にサ変動詞
を添えて意味を強化した形」。


11月21日
新編日本古典文学全集『萬葉集 1』によれば、
口語訳「あなたが 着ていらっしゃる衣の 縫目の一つ一つに
    入ってしまったようでございます わたしの心までも」、
「我が背子──中臣朝臣東人(なかとみのあそみあづまと)をさす。
着せる衣──ケスは着ルの敬語形。作者が縫って着せた衣服。
針目落ちず──オチズは、漏れなく、欠けることなく、の意。正倉院に現存する
衣服を調査した報告では、針目は1〜2ミリ、間隔は約5ミリだという。針の形は
現在の縫針に類似し、布地によって多少その太さが違っていた。
こもりにけらし──原文『入尓家良之』。『東大寺諷誦文稿(ふじゅもんこう
)』に『入』をコモレリと読んだ例がある。ケラシはケルラシの約」、
作者「阿倍女郎(あへのいらつめ)──万葉集には阿倍女郎・安倍女郎と記した
ものが少なくとも二人は見える。〔下略〕」。

万葉集では、この歌のあと、中臣東人(あずまひとトモ)の答歌、阿倍女郎のま
たそれに答える歌が続く。中臣東人は、本集ではおなじみの狭野茅上娘子(さの
のちがみのおとめ)の夫である中臣宅守(やかもり)の父とのこと。


11月22日
伊藤博『萬葉集釈注 一』によれば、
「 忘れることもあろうかと、人と世間話などして気を紛らわし、
  物思いを消してしまおうとするのだけれど、消え去るどころか、
  いっそう恋しくなるばかりだ。
の意。……他事によって紛らわそうと努めても恋の苦しみが常につきまとうとい
う古今普遍の立場がよくうたわれている。『なほ恋ひにけり』で結ぶ歌は二・
117以下八例ばかりを見る。中で、これはとくに効いていて、嘆きが深い」。


11月23日
¶今日は勤労感謝の日。この「国民の祝日」は、もと陰暦11月の卯の日におこな
われた新嘗祭に当るとのこと。

水島義治『萬葉集全注 巻第十四』(有斐閣刊)によれば(摘記引用)、
口語訳
 「どなたですの、この家の戸をがたがたとゆするのは。
  新嘗の祭りに夫を外に出し、
  戸を閉じて忌み慎んでいるこの家の戸を」、

「誰ぞこの屋の──『誰ぞ」は誰がと訝り咎めた語。『ぞ』は第二句の『押そぶ
る』にかかる。
戸押そぶる──『押そぶる』はがたがたとゆする意の他動詞。ラ行四段、連体形。
ここで切れる。
新嘗に──『にふなみ』は『にひなへ』の訛り。ニヒナヘ→ニヒナメ→ニフナミ。
『新嘗』はその年の新穀を神々に供えて、豊穣を感謝する祭り。夜を徹して饗宴
をする儀礼で、宮中だけでなく神社・村落・家でも行われた。
我が背を遣りて──村で行われる祭りに夫を送り出してやって。あるいは妻が家
の中で新嘗の祭りを行うために夫を遠ざけたのかもしれない。
斎ふこの戸を──潔斎しているこの家の戸を。『斎ふ』は身を清め、穢(けが
れ)を避け、人に触れないようにすること。潔斎する。また、神聖なものとして
祭る、神秘的な力を持って守護する、加護する意にも。夫を部落で行われる新嘗
の祭りに送り出し、妻は戸を閉じて、家の中で斎戒、潔斎して神事を行ったので
あろう。この際はたとえ夫であっても中に入れることができなかったのである」。

多田一臣編『万葉集ハンドブック』(三省堂刊)の「第二部 万葉秀歌」─「東歌
・防人歌」(高野正美氏執筆)によれば、
「『新嘗』……の夜は神に仕える女性だけが祭場に籠もり、集落全体は物忌みし
て家に籠もった。この歌はその祭場に忍んできた男を咎めるものだが、新嘗は農
民にとって重要な祭りであり、この厳粛な新嘗の夜を汚す者など実際にはありえ
ない。おそらくこの歌は、新嘗の祭りのあとに行われた宴(うたげ)の場でうた
われたものであろう。新嘗祭に奉仕した女性は、宴の場に居合わせた誰かが忍ん
できたかのごとくうたうとき、聖所を汚そうとした者がいるとして男たちをから
かうことになる。もちろん、そんな者はいないと承知のうえで、誰それだなどと
いって騒然となり、宴はますます盛りあがる。ここには収穫の喜びのなかで酒に
酔い、戯れあう農民たちの明るい笑い声が響いている」。


11月24日
新編日本古典文学全集『萬葉集 3』によれば、
第一・二句の訳「ええいもう 恋などするものかと思っても」、
「よしゑやし──ここは薄情な男を恨み、それに対して、どうなりと好きなよう
にするがよいと、捨鉢な気持から発した感動詞。原文『忍咲八師』の『忍』は、
枕詞オシテルを『忍照』と書くように、オスと読まれる字。耐え忍ぶ、押えつけ
る、の意で、自分自身に対しては辛抱しようと努め、相手に向っては勝手にする
がよいと放任する気持で用いた」。


11月25日
新日本古典文学大系『萬葉集 一』によれば(摘記引用)、
題詞(訳)「対馬の島の浅茅の浦に着いて船泊りした時、順風が得られずとどま
ること五日。そこで、風物を見て、それぞれのせつない思いを述べて作った歌三
首」の第一首、
口語訳「多くの船が停泊する津という対馬の浅茅山は
    しぐれの雨に一面に色付いた」、
「『百船の泊つる』は、『泊つる津』から『つ』の同音により『対馬』を導く序
詞。
『もみたひ』は、動詞『もみつ』に接尾語『ふ』がついた動詞の連用形。継続・
反復などの意になるので、口語訳は『一面に』とした」。


11月26日
未勘国歌、相聞の一。

水島義治『萬葉集全注 巻第十四』(有斐閣刊)によれば(摘記引用)、
口語訳「佐野山で打つ斧の音が遠くから聞こえる。そのように
    遠く離れているが、一緒に寝ようと思っているのか、
    妻の姿が面影に見えたことだ。
〈注〉
打つや斧音の──打つ斧の音のように。佐野山で樵(きこり)が打つ斧の音が遠
くから響いて来るが、その音の遠いようにというのである。『や』は間投助詞。
ここまでの上二句、次の『遠かども』を起こす譬喩的序詞。
遠かども──(妻の家は)遠いけれども。『遠か』は『遠け』(ク活用形容詞
『遠し』の已然形)の訛り。
寝もとか児ろが──『寝も』は妻の意中を推量して言ったもの。『も』は『む』
(意志・推量の助動詞『む』の終止形)の訛り。『か』は疑問。『児ろ』は上代
東国語。若い女性、恋人、妻などを親しんで言う。ここは妻。
〈考〉
〔結句原文〕於母尓美要都留──この句についての〔折口信夫〕東歌疏(そ)の
説明が簡にして要を得ている。『おもは総て「於由」となつてゐる〔
「諸写本に異同がない」〕。文章から言へば、おもに相違ない。真淵は
「母」の誤りとしてゐる。大体これで当つてゐる。髣髴・幻影・まぼろしである。
は、として見えつるは、出現した〔下線部、
引用元は傍点付き〕。


11月27日
島木赤彦『万葉集の鑑賞及び其批評(前編)』によれば、
「志貴親王の御子湯原王の吉野に行かれし時の歌である。吉野なる夏実の川の青
く淀める所に鴨が鳴いてゐる。そこは日もささぬ山陰の寂しい所である。深山
(みやま)と川と水鳥と合(がっ)して寂寥(せきりょう)の一如(いちにょ)
に帰し、一如に帰してゐる中に水と鴨とが動いてゐる。萬葉集中の秀逸である。
『山かげにして』の結句が、如何(いか)によく全体に響きを反(かへ)してゐ
るかを想ふべきである。この反響、宛(さなが)らにして名鐘の余韻である。父
親王に「いは走る垂水(たるみ)のうへのさ蕨(わらび)の萌えいづる春になり
にけるかも」〔本集3月1日掲載〕があり、御子にこの歌がある。御父子の歌幸
(うたさち)羨望に値する」。


11月28日
作者不明歌巻、劈頭に位置する「雑歌二十七首」中、「王命恐(おほきみのみこ
とかしこみ)」とうたい出される長歌3240の反歌。

新編日本古典文学全集『萬葉集 3』によれば、
口語訳「天地の神に 無実を訴えて祈り
    さきく──無事であったら また来て見ることもあろう
    この志賀の唐崎を
    〔下線部、引用元傍点付き〕」、
左注(訳)「右の二首、ただし、この短歌は、ある書には、穂積朝臣老(ほづみ
のあそんおゆ)が佐渡に流された時に作った歌だという」、
「天地を訴へ乞ひ祷み──この天地は天ツ神・国ツ神をさす。訴ヘ乞ヒ祷ミの原
文は『難乞祷』とあり、一般には『歎乞祷』の誤りとする〔賀茂真淵〕『万葉
考』の説が行われている。しかし、「難」にはカタシの他にウレフ(憂)の訓も
あり、ウレフには訴える意があるのによってウレヘコヒノミとする説による。
またかへり見む──巻第三の288に穂積老の歌として『ま幸くあらばまたも見む
志賀の大津に寄する白波』とある。この歌と場所も歌境も近く、左注の『或書』
の記事がいう所も十分にもっともなことといえよう」。


1 1月29日
岩波古語辞典によれば、
したひ──「[一](四段)赤く色づく。▽ヒは上代では Fi の音で四段活用。シタ
ビと訓んで上二段活用とするのは誤り。[二](名)木の葉の赤く色づくこと」。


11月30日
巻二、持統天皇の代の歌、弓削皇子(ゆげのみこ)と額田王との間の贈答歌、都
合三首(111〜113)の第三首。第一、二首は本集5月30、31日に掲載。本メモは
この二首も含めて

伊藤博『萬葉集釈注 一』によれば、
「かりに持統七年五月一〜七日の行幸時の詠と見て、弓削皇子は二十四歳前後、
額田王は六十三、四歳であった〔新編日本古典文学全集『萬葉集 1』では、「弓
削皇子、この時十八、九歳。額田王は六十歳ぐらい」とある〕。その頃、都に残
る額田王と行幸に従って吉野にある弓削皇子とのあいだに交わされたのがこの三
首である。
 天武天皇の子弓削皇子は、天智天皇の娘大江皇女の子で、同母兄に長皇子(な
がのみこ)がいる。……天武──草壁──文武という自分の血筋に執着し、諸皇
子に厳しく対する持統女帝の治世下にあって、人一倍不安と哀愁を感じて生きな
ければならぬ運命を負わされたらしい。一方、額田王も、吉野を拠点とする壬申
の乱によって開けた時代、とくに持統朝(686〜97年)の世には恵まれてはいな
かったと思われる。
 ……額田王のそういう立場を前提にしながら、都のあなたも私と同じ弧愁に暮
れているのでは、と謎をかけたのが弓削皇子の歌であるらしい。
  古(いにしえ)に恋い慕う鳥なのでありましょうか、
  鳥が弓絃葉(ゆづるは)の御井の上を鳴きながら
  大和の方へ飛び渡って行きます。(111)
「この鳥はまさにあなたなのですね」という問いかけなのであろう。この「いに
しへ」に、額田王には夫であり、弓削皇子には父であった天武天皇の統治するな
つかしくよき時代が寓せられていることはいうまでもあるまい。一首には、現実
の薄幸を分かちあう心が、切なく秘められていよう。この歌、全体に簡古で、鳥
を追う目にしみ通る思いのたけがあって、感銘を誘う。言いがたい響きとでもい
うべきであろうか。斎藤茂吉『万葉秀歌』も、この歌に感じ入って、その言葉づ
かいに「古調の妙味実に云ふべからざるものがある」といい、「既に年老いた額
田王は、この御歌を読んで深い感慨にふけつたことは既に言ふことを須(もち)
ゐない。この歌は人麿と同時代であらうが、人麿に無い簡勁(かんけい)にして
静和な響をたたへてゐる」と評している。
 謎の意味が、額田王にはすぐにわかった。しかし贈答の常として、真正直には
答えない。「その鳥はまさに私なのです、感謝致します」というような答え方は
しない。そういう答え方をすれば、歌心なき者、風雅を解せぬ者、恋心を知らぬ
者として排せられる。中国の故事に、ほととぎすを懐古の悲鳥と見る習いがある。
昔、蜀の国王望帝(杜宇〈とう〉)は、ある事件により王位を追われ、のちに復
位しようとしたが成らずに死んだ。死後、王はほととぎすとなり、春ともなれば、
往時を偲んで昼夜を分かたず鳴いた。蜀人はこれを望帝の魂と知って悲しんだと
いうものである。よってほととぎすのことを「蜀魂(しょくこん)」ともいう。
 額田王は、その故事を踏まえて、
  古に恋い慕うて飛び渡るというその鳥は
  ほととぎすなのですね。その鳥はひょっとしたら
  鳴いたかもしれませんね。私が遠い昔を
  一途に思いつづけているように。(112)
と、上三句でまず皇子の謎に対する解釈を示しつつ、下二句で皇子の好意にさり
げなく応じた。しかし、このようにさりげなく応ずることも、一つのはぐらかし
である。はぐらかすことで、相手の心の中により深く入りこんでいる。そして、
このように答えれば、弓削皇子が額田王の歌に期待したところも、蜀魂の故事に
則っての返答だったということになり、互いにその?教養?がたたえられて、誰
が見てもさしさわりがない。そこに、かりに、弓削皇子を、若き日の額田王の夫
天武天皇と取りなすような映像があったとしても、第三者の誰もがとがめだてす
ることはできないのである。「香炉峰の雪はすだれを掲げて見る」(『枕草子
』)という清少納言の叡知は、すでに万葉びとにもあったと見てよい。
 113の歌は、112の歌を受け取った弓削皇子が、蘿(こけ)の生(む)した松の
枝に文(ふみ)を結びつけて返答してきたのに対して、さらに応じた歌である〔
113題詞「吉野より蘿生す松が枝を折り取りて遣(おく)る時に、額田王が奉り
入るる歌一首」〕。その文に歌があったかどうかはわからない。しかし、112の
歌をほめたたえ、互いの現今の心境に対する吐露を示したものが文の内容であっ
たことは、まちがいなかろう。
  み吉野の玉松の枝はまあ何といとしいこと。
  あなたのお言葉を持って通ってくるとは。(113)
という113の歌は、儀礼だけに終始した挨拶歌のように見えるけれども、ここに
「文」の中身に対する感謝のすべてが示されており、二人のあいだでは万事が了
解されたのであろう。「はしきかも」といわれる「玉松が枝」は、そのまま、弓
削皇子その人である。あたかも弓削皇子は、額田王よりも四十歳の年下である。
「玉松が枝ははしきかも」には、孫の甘えをいとおしむような心やりが感じられ
る。112・113は額田王最晩年の歌で、王の歌はこの二首をもって『万葉集』から
消える。往年の御言持ち歌人の張りは、ここにはもう漂っていないように感じら
れる。けれども、歌の何であるかを心得た老女の教養のゆとりが静かに聞こえて
くる」。





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