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《新版 万葉秀歌365》12月

12月1日(
) 近江の海夕浪千鳥汝が鳴けば 心もしのに古思ほゆ☆── 柿本人麻呂〔巻三・266〕
         あふみのうみ ゆふなみちどり ながなけば こころもしのに いにしへおもほゆ  かきのもとのひとまろ

   2日(
) 大き海の水底深く思ひつつ 裳引き平しし菅原の里☆── 石川女郎〔巻二十・4491〕
         おほきうみの みなそこふかく おもひつつ もびきならしし すがはらのさと  いしかわのいらつめ

   3日(
) 葦の葉に夕霧立ちて鴨が音の 寒き夕し汝をば偲はむ── 東歌〔巻十四・3570〕
         あしのはに ゆふぎりたちて かもがねの さむきゆふへし なをばしのはむ  あずまうた

   4日() あかねさす昼は物思ひぬばたまの 夜はすがらに音のみし泣かゆ☆── 中臣宅守〔巻十五・3732〕
         あかねさす ひるはものもひ ぬばたまの よるはすがらに ねのみしなかゆ  なかとみのやかもり

   5日(
) 軽の池の浦廻行き廻る鴨すらに 玉藻の上にひとり寝なくに☆── 紀皇女〔巻三・390〕
         かるのいけの うらみゆきみる かもすらに たまものうへに ひとりねなくに  きのひめみこ

   6日(水) 朱らひく肌に触れずて寝たれども 心を異にはわが思はなくに☆── 柿本人麻呂歌集〔巻十一・2399〕
         あからひく はだにふれずて ねたれども こころをけには わがもはなくに  かきのもとのひとまろのかしゅう

   7日(
) 朝日影にほへる山に照る月の 飽かざる君を山越しに置きて☆── 田部櫟子〔巻四・495〕
         あさひかげ にほへるやまに てるつきの あかざるきみを やまごしにおきて  たべのいちい

   8日(
) 明け闇の朝霧隠り鳴きて行く 雁は吾が恋妹に告げこそ── 作者未詳〔巻十・2129〕
         あけぐれの あさぎりがくり なきてゆく かりはあごこひ いもにつげこそ  さくしゃみしょう

   9日(
) 夕凝りの霜置きにけり朝戸出に 甚くし踏みて人に知らゆな☆── 作者未詳〔巻十一・2692〕
         ゆふこりの しもおきにけり あさとでに いたくしふみて ひとにしらゆな  さくしゃみしょう

  10日(
) 多由比潟潮満ち渡る何処ゆかも 愛しき背ろが我がり通はむ☆── 東歌〔巻十四・3549〕
         たゆひがた しほみちわたる いづゆかも かなしきせろが わがりかよはむ  あずまうた

  11日(
) 山高み白木綿花に落ちたぎつ 滝の河内は見れど飽かぬかも☆── 笠金村〔巻六・909〕
         やまたかみ しらゆふはなに おちたぎつ たきのかふちは みれどあかぬかも  かさのかなむら

  12日(
) 山の端にあぢ群騒き行くなれど 吾はさぶしゑ君にしあらねば☆── 岡本天皇〔巻四・486〕
         やまのはに あぢむらさわき ゆくなれど あれはさぶしゑ きみにしあらねば  おかもとのてんのう

  13日(
) うつせみの常なき見れば世の中に 心付けずて思ふ日そ多き☆── 大伴家持〔巻十九・4162〕
         うつせみの つねなきみれば よのなかに こころつけずて おもふひそおほき  おおとものやかもち

  14日(
) 山の際に渡る秋沙の行きて居む その川の瀬に波立つなゆめ☆── 作者未詳〔巻七・1122〕
         やまのまに わたるあきさの ゆきてゐむ そのかはのせに なみたつなゆめ  さくしゃみしょう

  15日(
) 八雲さす出雲の子らが黒髪は 吉野の川の沖になづさふ☆── 柿本人麻呂〔巻三・430〕
         やくもさす いづものこらが くろかみは よしののかはの おきになづさふ  かきのもとのひろまろ

  16日(
) 神奈備にひもろき立てて斎へども 人の心は守りあへぬもの☆── 作者未詳〔巻十一・2657〕
         かむなびに ひもろきたてて いはへども ひとのこころは まもりあへぬもの  さくしゃみしょう

  17日(
) 小竹が葉のさやぐ霜夜に七重着る 衣に勝る子ろが肌はも☆── 防人〔巻二十・4431〕
         ささがはの さやぐしもよに ななへかる ころもにませる ころがはだはも  さきもり

  18日(
) 島隠り吾が榜ぎ来れば欠しかも 倭へ上る真熊野の船☆── 山部赤人〔巻六・944〕
         しまがくり わがこぎくれば ともしかも やまとへのぼる まくまののふね  やまべのあかひと

  19日(
) 名ぐはしき印南の海の沖つ波 千重に隠りぬ大和島根は☆── 柿本人麻呂〔巻三・303〕
         なぐはしき いなみのうみの おきつなみ ちへにかくりぬ やまとしまねは  かきのもとのひとまろ

  20日(
) 都辺に行かむ船もが刈薦の 乱れて思ふこと告げやらむ☆── 遣新羅使人 羽栗〔巻十五・3640〕
         みやこへに ゆかむふねもが かりこもの みだれておもふ ことつげやらむ  けんしらぎしじん はくり

  21日(
) ひさかたの天の露霜置きにけり 家なる人も待ち恋ひぬらむ── 大伴坂上郎女〔巻四・651〕
         ひさかたの あめのつゆしも おきにけり いへなるひとも まちこひぬらむ  おおとものさかのうえのいらつめ

  22日(
) あしひきの山鳥の尾のしだり尾の 長ながし夜をひとりかも寝む── 作者未詳〔巻十一・2802 或本歌〕
         あしひきの やまどりのをの しだりをの ながながしよを ひとりかもねむ  さくしゃみしょう

  23日(
) 伊勢の海の沖つ白波花にもが 包みて妹が家づとにせむ☆── 安貴王〔巻三・306〕
         いせのうみの おきつしらなみ はなにもが つつみていもが いへづとにせむ  あきのおおきみ

  24日(
) 我が妻も絵に描きとらむ暇もが 旅行く我は見つつ偲はむ☆── 防人 物部古麻呂〔巻二十・4327〕
         わがつまも ゑにかきとらむ いつまもが たびゆくあれは みつつしのはむ  さきもり もののべのこまろ

  25日(月) 葛飾の真間の手児名をまことかも 我に寄すとふ真間の手児名を☆── 東歌〔巻十四・3384〕
         かづしかの ままのてごなを まことかも われによすとふ ままのてごなを  あずまうた

  26日(
) 我が里に大雪降れり大原の 古りにし里に降らまくは後☆── 天武天皇〔巻二・103〕*
         わがさとに おほゆきふれり おほはらの ふりにしさとに ふらまくはのち  てんむてんのう

  27日(
) 我が岡のおかみに言ひて降らしめし 雪のくだけしそこに散りけむ☆── 藤原夫人〔巻二・104〕
         わがをかの おかみにいひて ふらしめし ゆきのくだけし そこにちりけむ  ふじわらのぶにん

  28日(
) 窓越しに月おし照りてあしひきの 嵐吹く夜は君をしそ念ふ── 作者未詳〔巻十一・2679〕
         まどごしに つきおしてりて あしひきの あらしふくよは きみをしそおもふ  さくしゃみしょう

  29日(
) 憶良らは今は罷らむ子泣くらむ それその母も吾を待つらむそ☆── 山上憶良〔巻三・337〕
         おくららは いまはまからむ こなくらむ それそのははも わをまつらむそ  やまのうえのおくら

  30日(
) 天の原振りさけ見れば白真弓 張りて懸けたり夜道は吉けむ☆── 間人大浦〔巻三・289〕
         あまのはら ふりさけみれば しらまゆみ はりてかけたり よみちはよけむ  はしひとのおおうら

  31日(
) 磯城島の大和の国は言霊の 助くる国ぞま幸くありこそ☆── 柿本人麻呂歌集〔巻十三・3254〕
         しきしまの やまとのくには ことだまの たすくるくにぞ まさきくありこそ  かきのもとのひとまろのかしゅう







〈今日の秀歌メモ〉

12月1日
島木赤彦『万葉集の鑑賞及び其批評(前編)』によれば、
「人麿二十四歳にして近江の本居(ほんきょ)より京に上りし時の歌とするもの
あれど、小生は歌柄から推して、それより、ずつと後の作であらうと思つてゐる。
人麿の父祖は、世々大和に居つたものであるらしいが、近江朝廷の時、人麿の父
が一家を挙げて近江へ移つたとも思はれ、人麿の京へ出仕した後も、時々衣暇
(えか)田暇(でんか)等の公暇を得て近江へ帰つたらしく、さういふ時の往復
に斯(かか)る歌が生れたのだらうと思はれる。恐らく三四十歳の間に出来た作
であらう。先づ『夕浪千鳥』はいかにも寂しい心持の現れた詞である。恐らく人
麿の造語であらう。『心も萎(し)ぬに』は萎(しを)れる意である。淡海の海
の夕浪千鳥よ。と呼びかけて、お前が鳴けば心もしぬに萎れて古が思はれる。と
志賀の旧都を追懐するの意を千鳥に訴へてゐる心甚(はなは)だ哀れである。一
首全体の音調が『伊列音』を多く交じへて虔(つつ)ましい響きに終始してゐる
ために自(おのづ)から哀韻を帯び、更に第一句切れ・第二句切れの重々しき句
法を重ねて、それを第五句八音の字余り句を以(もつ)て結んでゐるために、頭
負けをせざるのみならず、全体に荘重の心持が現れて、各音の持つ哀韻をして単
なる感傷に終らしめてゐない。この辺の機微皆作者の主観より生れ出づる所であ
つて、形を以て模すべからざるものである。その辺の消息を我々は考へて見る必
要がある。秀れたものの前に叩頭(こうとう)の至意を致し得るのは、自己を秀
れしむるの第一歩である。秀作の前に叩頭し得ざるほどの人から、何(ど)うし
て秀作の生れ出ることがあらう。今人(こんじん)自尊、往々にして古人の前に
平然として嘯(うそぶ)いてゐる。自らを重んずるのではない。自らを容易にし
てゐるのである。人麿には、又第五句八音字余りが多い。これも人麿の感動が常
に荘重に働くからであつて、一首の心持に重い落ち着きと、<U>がつしり</U>し
た据わりを生ずる。この歌の第五句も亦(また)さうである。尤(もつと)も、
第五句字余りは、人麿に限らず、萬葉全体に多く見受ける所であつて、それを萬
葉人の特徴と見得るのであるが、人麿には特にそれがよく現れてゐるやうである。
〔下略〕」〔下線部、引用元傍線付き。後出も〕。
*引用文中「心も萎(し)ぬに」の「ぬ」は、橋本進吉「上代特殊仮名遣い」研
究の成果が定着する以前の訓み方。

塚本邦雄撰『清唱千首』(冨山房百科文庫)は言う。
「現代人がはつと目を瞠るやうな新鮮さを感じるのは、『夕浪千鳥』なる一首の
造語風歌詞(うたことば)であらう。簡潔でしかも溢れる情趣は言ひ尽し難い味
はひだ。「淡海乃海 夕浪千鳥 汝鳴者 情毛思努■〔人の下に小の字〕 古
所念」は、文字遣ひの上でも、湖と小禽の薄明の中の景色を髣髴させてまことに
印象的である。『古』一語にも、天智帝大津宮の面影をこめてゐる」。

さらに。
リービ英雄『英語でよむ万葉集』は、「柿本人麿、世界の古代文学の『最高峰
』」という章のなかで、つぎのように英訳し、解説を加えている〔以下引用〕。

  Plover skimming evening waves
  on the Omi Sea,
  when you cry
   so my heart trails
  pliantly
   down to the past.

 人麿の長歌のような壮大な構築とは違うが、この短歌には無限の深みがある。
「淡海(あふみ)の海」という最初の一句のあとにつづく「夕波千鳥」は、日
本語の現代語訳の最高峰である中西進氏の『万葉集 全訳注』によると、「漢語的
造語」である。あたかも一首の短歌の中に漢詩の一節が落ちているかのような書
き方によって、島国の場所の描写に大陸的な重みが加えられている。とくにその
あとの、「ながなけば こころもしのに」という、漢語からよほど遠い大和こと
ばの音が逆に生きてくるのである。
 そのような音のヴァリエーションは、もちろん、外国語訳にそのまま復元する
ことは不可能である。「夕波千鳥」という四つの漢字が生み出す効果は、せいぜ
い、on も in も the も使わないで、

  Plover skimming evening waves

 という四つのことばの並びで、何とか響かせようと試みるしかない。
 この短歌ほど、たった三十一文字の日本語を英訳するのに苦労したことは少な
い。人麿がその三十一文字の中で、歴史的な時間の前での人間の心の動きを表わ
していると感じたからだ。「汝が鳴けば心も」は簡単に、when you cry so my
heart となるのだが、そのあとの「しのに古(いにしへ)思ほゆ」には、日本語
の本質的な伝えにくさが内包されているので、むずかしい。
 「しのに」はたとえば中西氏の現代日本語訳では「しなえるように」となって
いる。ところが「しなえる」に相当する drooping は「弱体化する」に近いニュ
アンスで、使いにくい。そこで「しなやかに」に近い pliantly が浮かんだ。人麿
が「近江の荒れたる都に過(よぎ)りし時に」に詠んだという29番の長歌との連
想もあって、琵琶湖の湖畔にあった「近江の宮」という、消えてしまった歴史的
な場所に生じるペーソスの前で、心が「しのに」動く。
 「古思ほゆ」も、日本語独自の書き方である。古を思うのではなく、
思われる。「私」個人が任意的に思っているのではなく、ある必然性を
もって古が思われる。
 そのことを英訳で何とか表わすために、think という動詞をはずして、「しな
えるような」心の動きそのものを言い表わしてみた。

  So my hearet trails
  pliantly
  down to the past

心がおのずと、しなやかに、古へと向かってしまうのである。
傑作を翻訳するために、ときにはラディカルで思いきったことをしなければなら
ない。


12月2日
塚本邦雄撰『清唱千首』(冨山房百科文庫)によれば、
「男の恋歌に、富士山ほど高くあなたを思ひ初めたといふ例があり、この女歌は
わたつみの深みにたぐへた一途な思慕であつた。作者は藤原宿奈麿(すくなま
ろ)の妻、『愛薄らぎ離別せられ、悲しび恨みて作れる歌』と註記〔左注〕が添
へられる。平城京菅原の婚家の地を裳裾を引いて踏みならした記憶を、如実に蘇
らせてゐるのか。第四句が殊に個性的で人の心を搏(う)つ」。


12月4日
狭野茅上娘子(さののちがみのおとめ)との贈答歌のひとつ。

すがら──「[副]《スギ(過)と同根》途切れることなく、ずっと」(岩波古
語辞典)。

塚本邦雄撰『清唱千首』(冨山房百科文庫)によれば、
「昼・夜の対比による恋の表現は八代集にも数多見える。能宣(よしのぶ)の百
人一首歌「夜は燃え昼は消えつつ」も、その一例であらうが、宅守の作は第二句
までが昼、第三句以下が夜と単純に分けられ、ゆゑに一途(づ)の思ひが迸(ほ
とばし)る感あり。『逢はむ日をその日と知らず常闇(とこやみ)にいづれの日
まで吾(あれ)恋ひ居(を)らむ』も聯作中のもの。暗鬱で悲壮な調べは迫るも
のがある」。


12月5日
例解古語辞典第二版によれば、「すら」の項目中に、本歌の「解」として、
「軽の池の浦を泳ぎまわっている鴨だって、藻の上でひとりで寝はしないことだ。
雌雄つがいで寝ているのだ。まして人間である自分が、ひとりで寝ているなんて
不合理だが、と、今、現に自分がその不合理な状態にあることを嘆いている和歌。
『すらに』の『に』は間投助詞」とあり、
副助詞「すら」の用法を、「主語や修飾語に付いて、……(2)それを強調し、
他の場合を暗示する場合に用いられる。(2)の場合、それを程度の軽いものと
して、もっと重いもののあることを暗示することが多い」と説いている。

塚本邦雄撰『清唱千首』(冨山房百科文庫)は言う、
「巻三譬喩歌冒頭に見える作。紀皇女は穂積皇子と同じく、母を蘇我赤兄(あか
え)の女(むすめ)とする天武帝皇女である。独り寝の寂しさを訴へるにも鴨の
雌雄の共に浮ぶさまを一方に置き、間接表現で暗示する。『軽の池』と『玉藻』
の文字の上の閑麗な照応も、玉藻は人の上ならば玉の牀(とこ)となることも、
一首に皇女らしい趣をもたらした。縷々(るる)とした趣の、実に愛すべき作
品」。


12月6日
朱らひく──「赤い色を帯びる。赤みがさす」(岩波古語辞典)。
異(け)──「普通と異なるさま。いつもと変っているさま」(同上)。


12月7日
新編日本古典文学全集『萬葉集 1』によれば(摘記引用)、
口語訳「朝日の光が さして輝いている山に
    照る残月のように 名残惜しいあなたを
    山のかなたに置いて」
注「朝日影にほへる山に照る月の──飽カザルを起す序。残月の名残惜しさによ
ってかけた。ニホフは色や光が照り映える意。
飽かざる君──「君」は一般に男子をさすが、時には男が女性に対して用いるこ
ともある。ここもその一例。
山越しに置きて──この下に「寝(い)ねかてぬかも」などの語が省略されてい
るか。


12月9日
伊藤博『萬葉集釈注 六』によれば、
「右一首、霜に寄せる恋。
  夕方のうちから結んだ霜が一面に置いています。
  朝のお出かけの時にひどく踏みつけて、人にそれと
  知られないようにして下さいね。
 男の訪れたことがあからさまになることをはばかる女心を詠んだ歌で、味があ
る。第二句で『にけり』と詠嘆をこめて切り、『人に知らゆな』としっかと意志
を述べた調べは、男子の呼吸にも似て勁(つよ)い。それでいて、二人の仲を気
づかうこまやかさも潜んでいる」。


12月10日
未勘国歌、相聞の一。

水島義治『萬葉集全注 巻第十四』(有斐閣刊)によれば(摘記引用)、
口語訳「多由比潟には今潮が一面に満ちている。
    いったい何処を通って、いとしいあの方は
    私の許にやって来るのだろうか。
〈注〉
何処ゆかも──夫はいつも磯伝いに通って来る。今は満潮時なので通れないので
ある。『いづ』は『いづく』に当たる上代東国語。『ゆ』は動作の経由点。〜を
通って。『かも』は疑問の係助詞。
愛しき背ろが──『背ろ』は夫。
我がり通はむ──『がり』は〜の所に、の意を表わす接尾語。「む」は連体形、
「何処ゆかも」の結び。
〈考〉
 妻は今宵も夫が来るかと多由比潟を見渡して待っている。次第に夕潮がさして
来た。潮が引いている間は通れるが、満ちて来ると通れなくなる。何時もならも
う見える筈の夫の姿はまだ見えない。ひたひたと満ちてくる潮を見つめながら女
は苛立ちと不安──いったい何処を通って来るのだろう。これでは来れないので
はないか。途中で難儀してはいまいか──にかられながら立ち尽くしていた。
 夫婦を中核とした家族形態への道ははるかに遠く、不自由・不自然な夫婦別居
制下、夫が妻の家に通って行くいわゆる妻問婚、しかも一夫多妻という婚姻形態
が普通であった社会では、いつも逢えるわけでも、必ず逢えるというのでもない。
夫の訪れを待つ妻の心情は、現在のわれわれの想像をはるかに越えるものであっ
たろう」。


12月11日
「雑歌」の巻、巻六冒頭に置かれる長歌に添う反歌二首の第一首。

斎藤茂吉『萬葉秀歌』によれば、
「元正天皇、養老七年夏五月芳野離宮に行幸あつた時、従駕の笠金村が作つた長
歌の反歌である。『白木綿』は栲(たへ)、穀(かぢ)(穀桑楮)の皮から作つ
た白布、その白木綿(しらゆふ)の如くに水の流れ落つる状態である。『河内』
は、河から繞(めぐ)らされてゐる土地をいふ。既に人麿の歌に、『たぎつ河内
に船出するかも』(巻一・39)がある。また、『見れど飽かぬかも』といふ結句
も、人麿の、『珠水激(いはばし)る滝の宮処(みやこ)は見れど飽かぬかも』
(巻一・36)のほか、萬葉には可なりある。
 この一首は、従駕の作であるから、謹んで作つてゐるので、その歌詞もおのづ
から華朗で荘重である。けれどもそれだけ類型的、図案的で、特に人麿の歌句の
模倣なども目立つのである。併(しか)し、この朗々とした荘重な歌調は、人麿
あたりから脈を引いて、一つの伝統的なものであり、萬葉調といへば、直ちに此
(この)種のものを聯想(れんそう)し得る程であるから、後代の吾等は時を以
(もつ)て顧みるべき性質のものである。巻九(1736)に、『山高み白木綿花
(はな)に落ちたぎつ夏実(なつみ)の河門(かはと)見れど飽かぬかも』とい
ふのがあるのは、恐らく此歌の模倣であらうから、さうすれば金村のこの形式的
な一首も、時に人の注意を牽いたに相違ない」。


12月12日
「相聞」の巻、巻四の二首目に置かれる長歌に添う反歌二首の第一首。

さぶしゑ──「サブシはサビシの古形。ヱは不満な気分で発する間投助詞」(新
編日本古典文学全集『萬葉集 1』)。

伊藤博『萬葉集釈注 二』によれば、
本歌は、
「 山際をあじ鴨の群れが騒いで飛んで行くけれど、
  私はさびしくてならない。
  往き来する鳥は所詮我が君ではないから。
の意。
 この歌、鳥を君に比定するのは礼を失すると見て、さまざまな説がある。しか
し、ここに礼なきを思うのは近代の感覚ではなかろうか。鳥は亡き人の霊魂であ
るとする思想が古代人にはあった。この歌もそれを根底に置くもので、さかんに
通う鳥を君の霊魂、つまり君その人と見たいと思うけれど、それは所詮我が君で
はないという思いで詠んでいるのではなかろうか。これは『若草の夫(つま)の
思ふ鳥立つ』(二・153〔長歌〕)と、我が君の御魂(みたま)の鳥が飛び立っ
てしまうのを嘆く心の裏返しであろう。御魂の鳥を君その人と見たい。けれども、
そう思えない人間の深いさびしさがここには充ちている。一首は、古樸な言葉づ
かいの中に苦悶のみなぎる佳品だと思う」。
なお、長歌(485)と反歌二首(486、487)の作者について、伊藤氏は、興味深
い考説を述べている。


12月13日
巻十七から二十へと続く「家持歌巻」(家持の歌を中心に編集)の中のひとつ。

新編日本古典文学全集『萬葉集 4』によれば、
原文結句に「一に云ふ、『嘆く日そ多き』」(訓読)と注あり。
口語訳
 「人の身の はかないのを見ると 世俗の事に
  あまり心を染めずに 思う日が多い」、

「世の中に心付けずて──心ヲ付クは執心する意。人間関係でも対自然でもほど
ほどの距離を持し、和して同ぜず、何かに心を奪われて自己を見失うまいとする
家持のさめた生き方を示す。
思ふ日そ多き──この思フは、〈一云〉の『嘆く』に近く、思い煩う意」。


12月14日
雑歌「詠鳥」三首の一。

斎藤茂吉『萬葉秀歌』によれば、
「『秋沙』は、鴨の一種で普通秋沙鴨(あいさがも)、小鴨(こがも)などと云
つてゐる。一首の意は、山のあひを今飛んで行く秋沙鴨が、何処(どこ)かの川
に宿るだらうから、その川に浪立たずに呉(く)れ、といふので、不思議に象徴
的な匂ひのする歌である。作者はほんのりと恋愛情調を以(もつ)て詠んだのだ
らうが、情味が秋沙鴨に対する情味にまでなつてゐる。これならば近代人にも直
ぐ受納(うけい)れられる感味で、萬葉にはかういふ歌もあるのである。『行き
て居(ゐ)む』の句を特に自分は好んでゐる」。


12月15日
伊藤博『萬葉集釈注 一』によれば、
題詞「溺れ死にし出雲娘子(いづものをとめ)を吉野に火葬(やきはぶ)る時に、柿本
朝臣人麻呂が作る歌二首」の、掲載歌は、第二首。第一首は、
 「山の際(ま)ゆ出雲の子らは霧なれや 吉野の山の嶺にたなびく」
というもの。
「第一首(429)は、
  山あいからわき出る雲、その雲のようだった出雲娘子は、
  まあ、あのはかない霧なのか、そんなはずはないのに、
  吉野の山の嶺に霧となってたなびいている。
の意。火葬の煙を吉野の山の霧と見たもの。上三句に霧ならぬはつらつとした娘子の印
象をうたいあげ、対比して、下二句の霧としてたなびくはかなさを浮き立たせている。
 第二首(430)は、
  盛んにさしのぼる雲、その雲のようだった出雲娘子の
  美しい黒髪は、まるで玉藻のように
  吉野の川の沖の波のまにまに揺らめき漂っている。
の意。前歌と同様、上三句にみずみずしい娘子の姿を強調し、下二句の波にもまれて揺
れる娘子のはかなさを印象づけている。
 二首は第一首で結果を先にいい、第二首で原因をあとに示す構図である。火葬の時点
からさかのぼって、溺れ死んだ時のさまを印象新たに蘇らせることで、さらにまた霧と
してたなびくあわれさを深めるという手法である。『山の際ゆ』の枕詞を冠する第一首
では、人麻呂の目は上を向いている。そして、山に関しない『八雲さす』の枕詞〔「
《サスはタツの子音交替形》『やくもたつ』に同じ」(岩波古語辞典)〕を冠する第二
首では、人麻呂の目は下を向いている。下を向きつつ、上を思うて、悲しみのうちに歌
は閉ざされる。
 ここには、物語的趣向がある。出雲娘子は偶然の事故で溺れ死んだのではあるまい。
采女(うねめ)に負わされた禁忌である。男との密会があらわれて、入水を遂げたので
あろう。そういえば、巻二の同じ人麻呂の手になる吉備津采女の場合(217〜9)も同じ
であろうが、その死を『溺れ死にし』と装ったのは思いやりであろう。思いやりといえ
ば、黒髪が波のまにまに揺れ動くさまは、古代の宮廷女性が地につくほどの黒髪を持っ
ていたらしいことを下地において見れば、まさに、玉藻の動きに似た、切ないけれども
きわめて美しい姿である。そういう歌をあとに配したのは、これも娘子の永遠の安らぎ
を祈る人麻呂の思いやりであったのかもしれない。
 もっとも、第一首は『山』の歌、第二首は『川』の歌であって、これは、吉野では山
川対比によって対象をとらえなければならぬという伝統(一・36〜9参照)を意識してい
るらしい。吉野での歌は、讃美も悲嘆も、山川を対比することによって完備されるとい
う心の現われであるらしい。であっても、その完備は、せめては美しい姿で死にたかっ
た娘子を深く印象づけようとした人麻呂の心と矛盾しない。山川対比の手法から見て、
二首は行幸に供奉した折、おもに女たちの集う場で披露されたものにちがいない。巻三
のこの位置にあることや、人麻呂と持統女帝のとのかかわりから推して、大宝元年(70
1)六月二十九日、持統上皇が吉野に行幸した折の詠と見るのが最も自然であろう」。


12月16日
新編日本古典文学全集『萬葉集 3』によれば、
「神奈備──→3227(神奈備の三諸の山)。ここは神のいます所の意の普通名詞
か。
ひもろき──神事の際、聖域たる場所の結界に植え並べた常緑樹の垣。『日本書
紀』や『古語拾遺』に『神籬』をヒモロキと読ませる訓注がある。後に神霊のよ
りましとして立てる榊(さかき)の類をさすようになる。ここもそれか。
斎へども──斎戒して神に祈るけれども。
守りあへぬもの──下二段のアフは、抵抗する、〜できる、の意。相手の心を繋
ぎ留め難いことを嘆いて言う」。


12月17日

島木赤彦『万葉集の鑑賞及び其批評(前編)』によれば、
「防人歌中の秀作であらう。『小竹が葉のさやぐ』といひて霜夜が余計に静かに
なり、静かな霜夜の気が夜床に沁み入る感がある。『七重著(か)る』は『七重
著(き)る』であり、著(き)る・著(け)る相通じ、それを訛りて東国で『著
(か)る』と言つたのであらう。この歌第四五句あつて猶(なほ)肉感に堕(
お)ちざるは、第一二句の静粛感が加はるためであつて、左様な静粛感と共存し
て肉感が生きてゐる所、実によい心地がするのである。歌(186)に比べると、
二つの歌の違ひがよく分るであらう。あれは享楽的な心から生れた歌であり、こ
れは痛切な境遇から生れた歌である」。
「歌(186)」は国歌大観番号524、本集3月9日掲載歌(メモあり)で、これに
ついて赤彦はこう言っている。
「萬葉には官能的臭ひのする歌が可なり多いが、それが単なる官能に終らずして、
いつも中枢的な感動によつて統べられてゐるために芸術としての高さを持ち得る。
小生は萬葉の末期に入つて一つの異例を発見した。
  蒸衾(むしぶすま)なごやが下に臥せれども 妹とし寝ねば肌し寒しも
 異例とはこの歌である。作者は藤原麿である。……暖く柔かく立派な布団の中
に寝てゐながら、嘆ずるところは妹と寝ない肌寒さである。一首の要求が官能に
終つてゐて、中枢的に訴える所の痛切さがない。これを、明治時代に一時歓迎せ
られた「湯上がりをお風邪召すなのわが上衣(うはぎ)臙脂紫(えんじむらさ
き)人美しき」の類に比べれば、流石(さすが)に萬葉の風尚中に生れただけの
姿を保つてゐるけれども、他の萬葉諸歌の前に置くと品位やや下れるの感がある。
これも末期の一つの現れであらう」。


12月18日

島木赤彦『万葉集の鑑賞及び其批評(前編)』によれば、
「赤彦が、西方へ旅して、播磨(はりま)国辛荷(からに)島を過ぎし時の長歌
の反歌第二首である。『欠し』は、もと、欠乏の意にして、転じて、愛賞し或
(あるい)は羨望する等の意にも用ひられてゐる。ここでは羨望の意である。自
分が乗れる樺皮(かには)纏(ま)きの小舟は、今島かげを榜ぎつつ遙かなる西
の空に向つてゐる。故郷すでに遙かにして、向ふ所猶(なほ)測り難い海上で、
偶(たまた)ま熊野船(熊野船は神代より名あり。熊野杉等にて造りしならむ。
関東にて足柄船の如し)の東方に向ふに出逢つた。彼(か)の船は故郷倭の方へ
榜いで行くのだと、羨望の心を熊野船に寄せたのであつて、『欠しかも』が四五
句全体へ掛つて、終りを『真熊野の船』といふ名詞でどしりと据ゑた姿堂々とし
てゐる」。


12月19日

新編日本古典文学全集『萬葉集 1』によれば、
題詞「柿本朝臣人麻呂が筑紫国に下る時に、海路(うみつぢ)にして作る歌二
首」の第一首、
「名ぐはしき──その名も麗しい。
沖つ波千重──沖ツ波の千重波の意。
大和島根──大和島に同じ。播磨灘から明石海峡を通して眺めた陸地」。


12月20日

新日本古典文学大系『萬葉集 三』によれば、
題詞「熊毛(くまげ)の浦に船泊(ふなどま)りせし夜に作りし歌四首」のうち
「羽栗」作の一首。
口語訳「都の方へと行く船があればよいが。
   (刈薦の)心乱れて思うことを告げ知らせようものを」。


12月23日

新日本古典文学大系『萬葉集 一』によれば、「養老二年(718)二月、元正(げ
んしょう)天皇が美濃から尾張・伊賀・伊勢へと行幸した時の作か(澤瀉久孝
『萬葉集注釈』)」という。

塚本邦雄撰『清唱千首』(冨山房百科文庫)は言う、
「伊勢の沖には雪白の波が花のやうに砕け散る。花であつてほしい。包んで持ち
帰つて妻への土産(みやげ)にしようものを。波の花を胸に抱へて夢に妻の許へ
急ぐ男。安貴王は志貴皇子(しきのみこ)の孫にあたる。八世紀前半の萬葉歌人、
「明日(あす)行きて 妹に言問(ことど)ひ わがために 妹も事無く 妹が
ため われも事無く」と情愛を尽した巻四の長歌にも、その心ばへを見る」。


12月24日
稲岡耕二選「万葉集名歌事典─万葉名歌百首」(『万葉集事典』〈学燈社〉所
収)中の、水島義治氏執筆の項によれば、〔以下引用〕
[歌意] 私の妻をせめて絵に描き取る暇があったらなあ。(そうすれば)旅行
く私はいつもそれを見ては妻のことを偲ぶことができるのに。
[鑑賞] 物部古麻呂は遠江国長下郡(ながのしものこおり)出身の防人で、妻
の絵姿を描く暇もなく慌ただしく出発しなければならない嘆きを歌ったものであ
る。「防人歌」を集団的歌謡に属するものとしてとらえ、その集団的場がいわば
防人としての宣誓式のごとき性格のものであり、防人歌は本来的にそうした歌の
場における服従宣誓的な「言立(ことだ)て」という官公的性格のものであった
としたのは吉野裕であるが、防人歌が集団的歌謡の場で形成されたとする吉野説
の重要な論拠の一つは、この古麻呂の歌と同じ遠江の防人丈部黒当(はせべのく
ろまさ)の「父母も花にもがもや草枕旅は行くとも捧(ささ)ごて行かむ」(
4325)における「も」を「集団性に満ちた語法」であるとする見解である(『防
人歌の基礎構造』)。しかし木下正俊が指摘しているごとく(『万葉集全注巻第
二十』)、これは明らかに誤りであって、「我が妻も」および「父母も」の「
も」は、早くに佐伯梅友が主張し(「『も』の或る場合」『国語国文』昭9・
8)、のちに阪倉篤義が特に「も」の意味・用法の細かい分析からこれをさらに
確認・強化したように(「歌の解釈」『万葉』46)、この「も」は文法的には
「せめて……でも」と解すべきものである。私は旧著(『校註万葉集東歌・防人
歌』)において、「父母も」を「父も母も」の上の「も」の省略とみて、「父も
母も」、「我が妻も」を「私の妻をも」と註したが、「父母はせめて」、「私の
妻をせめて」とすべきであった。長い道中、いや任地に行ってからもその絵を見
ながら偲びたい。だからこそ我が妻をせめて絵に描き取ろうと願うのだが、その
暇もなく出発しなければならなかったことを古麻呂は嘆いているのである。


12月25日

水島義治『萬葉集全注 巻第十四』(有斐閣刊)によれば(摘記引用)、
口語訳「葛飾の真間の手児名を
    私と関係があるように、世間で言い騒いでいるというのは
    ほんとうだろうか。
    あの有名な真間の手児名を。
〈注〉
葛飾の真間の手児名──『手児名』は中央語の『をとめ』に当たる東国語。『
な』は接尾語。『背な』『児な』の『な』と同じ。葛飾の真間の地にいたという
評判の佳人。しかしおそらく実名ではなく、普通名詞であったろう。ミス葛飾・
真間小町と騒がれた伝説上の美人であったろうが、『手児名』という語それ自体
は『娘』のことである。
まことかも──『ほんとかしら、と歓喜の心で疑ったのである』(澤瀉久孝『萬
葉集注釈』)。『か』疑問、『も』詠嘆、共に係助詞。
我に寄すとふ──私といい仲だと噂しているということだ。『寄す』はある男と
女との間を、もう既に関係ができていると噂する、男女を結びつけて評判する、
という意の下二段動詞。『とふ』は『と言ふ』の略。上の『かも』の『か』を承
けて連体形]」。


12月26日

伊藤博『萬葉集釈注 一』によれば、
「歌〔103、104〕は、これまで見たいくつかの男女の贈答歌と同様、確立してい
る親愛関係の上に立って気楽に戯れあったもの。天皇の『我が里』(清御原の
宮)は、旧飛鳥小学校あたりといわれているが、明日香村役場北の板蓋(いたぶ
き)の宮伝承地と見る説もある。いずれにしても、藤原夫人(ふじわらのぶに
ん)の里『大原』(明日香村小原〈おはら〉)とは目と鼻の先である。その『大
原』を『古りにし里』(古ぼけた里)とおとしめ、
  わが里には大雪が降ったぞ。そなたの住む
  大原の古ぼけた里に降るのはずっとのちのことでござろう。
と言ってのけたところに、天皇の歌のおもしろさがある。歌の調子も、「雪─
原」「降れり──古りにし──降らまく」〔下線部、引用元傍点付き〕のよ
うに同音をくりかえしてはずんでおり、内容によく調和している」〔明日につづ
く〕、
藤原夫人は「藤原鎌足の娘、五百重娘(いおえのいらつめ)。大原大刀自とも。
『夫人』は妃(ひ)と嬪(ひん)の間に位置する天皇の妻妾」。


12月27日

伊藤博『萬葉集釈注 一』によれば〔承前〕、
「こう言われては、夫人もただで引き下がるわけにはいかない。すぐさま、
  わが岡の水神に言いつけて降らせた雪の、
  そのかけらがそこに散ったのでございましょう。
と攻勢に転じた。まず相手の『我が里』に対しては『我が岡』と、位置する場所
の高さを示して打って出た。そして、『大雪』に対しては『雪のくだけし』とい
い、『降る』に対しては『散る』といって、相手のものを過小にとらえることで
減らず口を叩いている。歌を受け取った天武天皇も破顔一笑、『やるわい、やる
わい』ということであっただろう。天武朝笑いの一齣(ひとこま)である。
 なお、104の歌の『雪のくだけし』について、集中の他の用例はいずれも『心
砕けて』の意であることや、雪をさすのに『塵』を用いる漢語の例(玉塵)など
から、降る雪を我が心が砕けてちる塵と表現し、ともに雪見のできない嘆きを託
したと解する説がある(学燈社『万葉集事典』平舘英子稿)。そういう面が『雪
のくだけし』の中にひそかに託されていると見れば、この歌、いっそうおもしろ
くなるのかもしれない」。


12月29日
島木赤彦『万葉集の鑑賞及び其批評(前編)』は言う(一部引用)、
「憶良は、漢文学の影響を受けて、道学的の教訓めかしきことを詠んだものは、
概(おほむ)ね観念的なものになり、生(な)まで、硬くて、力の透徹がないの
であるが、この人の素質は、真摯(しんし)で無邪気で、七十歳以後になつて、
多感な好々爺(こうこうや)であつたらしい。それゆゑ、思想的のものに手を出
さずして、身辺日常事や非常時につき当つて詠んだものに、却(かへ)つていい
ものがある。『男の子やも』〔「士(をのこ)やも空しくあるべき万代に語り継
ぐべき名は立てずして」本集4月28日掲載〕の歌がそれであり、ここに挙げたも
のもそれである」。

また、伊藤博『萬葉集釈注 二』によれば、
題詞「山上憶良臣(おみ)、宴(うたげ)を罷(まか)る歌一首」、
「一首は、
  憶良どもはもうこれで失礼致しましょう。
  家では子どもが泣いていましょう。多分、
  その子の母も私の帰りを待っていましょうよ。
という意。子どもとその子の母、つまり妻とにかずけて宴を辞去しようと申し出
た歌である。
 天平元年(729)のと仮定して、時に〔「筑前国守の職にあった」〕憶良は七
十一歳。家で泣きじゃくる子がいるべくもない。まして、さような子をあやして
待つような妻もいるはずがない。同席した若い官人を含めての代表的心理でうた
っているのであろう。七十一歳の憶良がそのような子と妻とがいるごとくにうた
っているところに笑いがある。どんなに引きとめられる宴席でも?母ちゃん?が
待っていると底なしにのろけてしまえば、笑って放任されるのが常であろう。憶
良も、その手をここに用いている。
 これを、〔大宰帥(だざいのそつ)、大伴〕旅人の貴族的な宴の雰囲気を嫌っ
て、席を中途で蹴って立つ歌としたり、『憶良ら』とみずからの名をうち出した
点に自我の主張があるとしたりするのは、古代の言葉や歌のあり方を知らぬ者の
解釈だと思われる。題詞には明確に、貴人のもとから礼をつくして退出する意の
『罷る』という語が用いてある。
 また、古代において、自己の名を用いて自己を称するのは、自分をへりくだる
場合に限られていた。自分を高く扱う時には、逆に『僕』(やつがれ)のような
代名詞を用いて、その名は表には出さなかったのである。事は、中国でも同様で
ある」。


12月30日

リービ英雄『英語でよむ万葉集』(岩波新書)によれば、
「間人宿祢(すくね)大浦の初月(みかづき)の歌二首 より
(口語訳)
  天の原を振り仰いで見ると、月は
  白い真弓のように張られて空に懸けてある。
  夜道は行くのによろしいだろう。
(英語訳)
  Looking back
  on the fields of heaven,
  I see the moon suspended
  like a drawn white bow
   of spindlewood;
  the night road should be good.

 どの言語においても、『月』をめぐる比喩を創らない文学はおそらくないだろ
う。『月』を『弓』にたとえる表現も、たぶん、世界文学の中ではめずらしくな
い。
 『初月(みかづき)の歌』も、初唐の王冷然の『初月賦』との類似が研究者た
ちによって指摘されている。原作そのものに『翻訳』の要素があるので、いまそ
れを英語に訳すことには、『翻訳の翻訳』という多次元的な面白みもある。

  Looking bak
  on the fields of heaven

 夜の大空は『天の原』で、the fields of heaven という、英語としては新鮮な
書き方には、『天の原』に相当する大きさが感じられる。その中に『白真弓(し
らまゆみ)』が弦を張った状態で懸けてあり、それが三日月の形と色を表わした
典雅な比喩的イメージをなしている。夜の道を歩いているか、いまから歩こうと
しているのだろう、その視点があっての描写だからこそ、最後の『夜道は吉け
む』まで読むと、原作と同じく、英語でも『自然描写』が急に緊張感に満ちてく
る。上を仰ぎ見て、大空に懸かっている月をとらえて、そして足元の、地上の現
実を意識する。

  the night road should be good.

 『イメージの力』も、天と地を意識した複合的な視点によって発揮されるので
ある。
 『白真弓』は、最初は文字通り、white true bow と訳したかった。

  I see the moon suspended
  like a drawn white bow,
  a true bow.

 『「白い、真(まこと)の弓」のように』と。それが英語として妙(たえ)な
る響きをかなでる。
 しかし、『真弓』はどうも『檀(まゆみ)』を指しているようで、『白真弓』
は字面と違って、おそらくは白い檀で作られた弓のことらしく、その学説は有力
である、と分かった。
 『檀』は、残念なことに英語では spindlewood になる。響きは少しも美しく
ない。

  like a drawn white bow
  of spindlewood.

 と、おかしみをこらえながら翻訳を訂正した。翻訳は正確になった。しかし、
『真弓』という原作者の文字に誘惑されて美しい誤訳をおかしたスリルは、忘れ
られない」。



12月31日
新編日本古典文学全集『萬葉集 3』によれば(摘記引用)、
「遠く旅立つ友人などに贈った歌か」という、
題詞「柿本朝臣人麻呂が歌集の歌に曰(いは)く」、「葦原の 瑞穂(みづほ)
の国は 神(かむ)ながら 言挙げせぬ国 然れども 言挙げぞ我(あ)がす
る」と始まる長歌(3253)の反歌、
口語訳「(磯城島の) 大和の国は 言霊の 助け給う国です
    ご無事でいらしてください」、
注「言霊──言葉の中に宿ると信じられた霊力。
助くる国ぞ──〔長歌に〕『言幸(ことさき)くま幸(さき)くませ』『つつみ
なく…ありても見む』と言挙げしたから、言霊の助けによって無事に帰還するこ
とは疑いない、という気持」、
なお、長歌の一句「言幸く」は「予祝する言葉どおりに無事、平穏に」、「つつ
みなく」は「つつがなく」の意。





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