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《新版 万葉秀歌365》4月

4月1日(土) たまきはる宇智の大野に馬列めて 朝踏ますらむその草深野☆── 間人老〔巻一・4〕
        たまきはる うちのおほのに うまなめて あさふますらむ そのくさぶかの  はしひとのおゆ

  2日() 大き海に島もあらなくに海原の たゆたふ波に立てる白雲── 作者未詳〔巻七・1089〕
        おほきうみに しまもあらなくに うなはらの たゆたふなみに たてるしらくも  さくしゃみしょう

  3日(月) 春の野にすみれ摘みにと来し我そ 野をなつかしみ一夜寝にける── 山部赤人〔巻八・1424〕
        はるののに すみれつみにと こしわれそ のをなつかしみ ひとよねにける  やまべのあかひと

  4日(火) 振分の髪を短み青草を 髪に綰くらむ妹をしそ思ふ☆── 作者未詳〔巻十一・2540〕
        ふりわけの かみをみじかみ あをくさを かみにたくらむ いもをしそおもふ  さくしゃみしょう

  5日() 梓弓引きて緩さずあらませば かかる恋には逢はざらましを── 柿本人麻呂歌集〔巻十一・2505〕
        あづさゆみ ひきてゆるさず あらませば かかるこひには あはざらましを  かきのもとのひとまろのかしゅう

  6日(木) あしひきの山の雫に妹待つと 吾立ち濡れぬ山の雫に☆── 大津皇子〔巻二・107〕*
        あしひきの やまのしづくに いもまつと われたちぬれぬ やまのしづくに  おおつのみこ

  7日(金) 吾を待つと君が濡れけむあしひきの 山の雫に成らましものを── 石川郎女〔巻二・108〕
        あをまつと きみがぬれけむ あしひきの やまのしづくに ならましものを  いしかわのいらつめ

  8日(土) 家にして吾は恋ひむな印南野の 浅茅が上に照りし月夜を☆── 作者未詳〔巻七・1179〕
        いへにして われはこひむな いなみのの あさぢがうへに てりしつくよを  さくしゃみしょう

  9日() 青柳の張らろ川門に汝を待つと 清水は汲まず立ち処平すも☆── 東歌〔巻十四・3546〕
        あをやぎの はらろかはとに なをまつと せみどはくまず たちどならすも  あずまうた

 10日(月) 春の野に霞たなびきうら悲し この夕かげに鶯鳴くも── 大伴家持〔巻十九・4290〕
        はるののに かすみたなびき うらがなし このゆふかげに うぐひすなくも  おおとものやかもち

 11日() さざれ波磯巨勢路なる能登湍川 音のさやけさ激つ湍ごとに☆── 波多小足〔巻三・314〕
        さざれなみ いそこせぢなる のとせがは おとのさやけさ たぎつせごとに  はたのおたり

 12日() うちなびく春さり来らし山の際の 遠き木末の咲きゆく見れば── 作者未詳〔巻十・1865〕
        うちなびく はるさりくらし やまのまの とほきこぬれの さきゆくみれば  さくしゃみしょう

 13日(木) 馬の音のとどともすれば松陰に 出でてそ見つるけだし君かと── 作者未詳〔巻十一・2653〕
        うまのとの とどともすれば まつかげに いでてそみつる けだしきみかと  さくしゃみしょう

 14日(金) 人言を繁み言痛み己が世に いまだ渡らぬ朝川渡る☆── 但馬皇女〔巻二・116〕
        ひとごとを しげみこちたみ おのがよに いまだわたらぬ あさかはわたる  たじまのひめみこ

 15日(土) 草枕旅行く背なが丸寝せば 家なる我は紐解かず寝む☆── 防人の妻 椋椅部刀自売〔巻二十・4416〕
        くさまくら たびゆくせなが まるねせば いはなるわれは ひもとかずねむ  くらはしべのとじめ

 16日() 筑波嶺の新桑繭の衣はあれど 君が御衣しあやに着欲しも☆── 東歌〔巻十四・3350〕
        つくはねの にひぐはまよの きぬはあれど きみがみけしし あやにきほしも  あずまうた

 17日(月) 磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど 見すべき君が在りと言はなくに☆── 大伯皇女〔巻二・166〕
        いそのうへに おふるあしびを たをらめど みすべききみが ありといはなくに  おおくのひめみこ

 18日(火) 塩津山打ち越え行けば我が乗れる 馬そつまづく家恋ふらしも── 笠金村〔巻三・365〕
        しほつやま うちこえゆけば あがのれる うまそつまづく いへこふらしも  かさのかなむら

 19日() 海人小舟帆かも張れると見るまでに 鞆の浦廻に波立てり見ゆ☆── 作者未詳〔巻七・1182〕
        あまをぶね ほかもはれると みるまでに とものうらみに なみたてりみゆ  さくしゃみしょう

 20日(木) み薦刈る信濃の真弓吾が引かば 貴人さびて否と言はむかも☆── 久米禅師〔巻二・96〕*
        みこもかる しなぬのまゆみ わがひかば うまひとさびて いなといはむかも  くめのぜんじ

 21日() み薦刈る信濃の真弓引かずして 弦はくるわざを知ると言はなくに☆── 石川郎女〔巻二・97〕
        みこもかる しなぬのまゆみ ひかずして をはくるわざを しるといはなくに  いしかわのいらつめ

 22日(土) 朝烏早くな鳴きそわが背子が 朝明の姿見れば悲しも── 作者未詳〔巻十二・3095〕
        あさがらす はやくななきそ わがせこが あさけのすがた みればかなしも  さくしゃみしょう

 23日() 多摩川にさらす手作りさらさらに 何そこの児のここだ愛しき☆── 東歌〔巻十四・3373〕
        たまがはに さらすてづくり さらさらに なにそこのこの ここだかなしき  あずまうた

 24日(月) ますらをは御狩に立たし乙女らは 赤裳裾引く清き浜びを── 山部赤人〔巻六・1001〕
        ますらをは みかりにたたし をとめらは あかもすそびく きよきはまびを  やまべのあかひと

 25日(火) 采女らの袖吹きかへす明日香風 京を遠みいたづらに吹く☆── 志貴皇子〔巻一・51〕
        うねめらの そでふきかへす あすかかぜ みやこをとほみ いたづらにふく  しきのみこ

 26日() 御食向ふ南淵山の巖には 降れる斑雪か消え残りたる☆── 柿本人麻呂歌集〔巻九・1709〕
        みけむかふ みなぶちやまの いはほには ふれるはだれか きえのこりたる  かきのもとのひとまろのかしゅう

 27日(木) 大船の泊つる泊りのたゆたひに 物思ひ痩せぬ人の児ゆゑに☆── 弓削皇子〔巻二・122〕
        おほぶねの はつるとまりの たゆたひに ものもひやせぬ ひとのこゆゑに  ゆげのみこ

 28日(金) 士やも空しくあるべき万代に 語り継ぐべき名は立てずして☆── 山上憶良〔巻六・978〕
        をのこやも むなしくあるべき よろづよに かたりつぐべき なはたてずして  やまのうえのおくら

 29日() 防人に行くは誰が夫と問ふ人を 見るが羨しさ物思ひもせず☆── 防人の妻〔巻二十・4425〕
        さきもりに ゆくはたがせと とふひとを みるがともしさ ものもひもせず  さきもりのつま

 30日() 立ちて思ひ居てもそ思ふ紅の 赤裳裾引き去にし姿を☆── 作者未詳〔巻十一・2550〕
        たちておもひ ゐてもそおもふ くれなゐの あかもすそびき いにしすがたを  さくしゃみしょう




〈今日の秀歌メモ〉

4月1日
たまきはる──「うち」にかかる枕詞。



4月4日
稲岡耕二選「万葉集名歌事典─万葉名歌百首」(『万葉集事典』〈学燈社〉所収)中の
項(高野正美氏執筆)によれば、
[歌意]振分けの髪が短いので、今ごろは青草を髪に結っているであろう、あの娘をい
としく思う。
[鑑賞]……「振分けの髪」とは、肩のあたりで切り揃えた髪を左右に分けて垂れたも
ので、……童女の髪型であった。……この歌の「妹」は「振分けの髪」が結髪するには
まだ短く、……束ねると解けてしまうほどであったので、青草を髪に結びつけたらしい。
「青草を髪にたく(束ね結ぶ)」とは、短い髪を青草で補って成女の髪型に結い上げる
ことをいうが、「髪が早く伸びるように、草の成長力にあやかった」(新潮日本古典集
成『万葉集』)とも推定されている。この種の呪術的な目的があったにせよ、青草を髪
に束ねた姿には成女らしく振舞おうとする、まだ少女の面影を残している初々しい娘が
連想される。この娘に思いを寄せているのは、少年期を脱して間もない若者であろう。
少年少女の可憐な恋ともいえるほどに、この歌には初めて恋を知った若者のほのかな思
いが漂っている。

なお、これまでの掲出歌にも見られる助詞としての「そ」は、後世「ぞ」と濁るが、
「奈良時代には多くは清音」(広辞苑)。


4月6日
題詞に、大津皇子が石川郎女に贈った歌とあり。
新日本古典文学大系『萬葉集一』は、つぎのように注釈を記す。
「相聞の歌では、女が男の訪れを待つのが普通であり、男が女を、しかも山中で待つと
いうことは尋常ではない。皇子と郎女の間の特殊な事情を窺わせる。題詞の『石川郎
女』は、同じ頃、草壁皇太子〔日並皇子尊〕と関係のあった石川女郎(110題詞)と同
一人であり、大津皇子としては、草壁皇太子の愛する女性を奪う行為であった」。

この歌に石川郎女が和した歌を明日掲載。


4月8日
[口語訳]
「我が家に帰ってから私は懐かしく思い出すことであろうな。昨夜、印南野の浅茅の上
に月が皎々と照らしていた光景はまことに見事であったな、と」(伊藤博『萬葉集釈注
(四)』〈集英社文庫〉)。

なお、新日本古典文学大系『萬葉集二』に、
「動詞『恋ふ』は、格助詞『に』を受けて、『に恋ふ』という形を取る。『を恋ふ』と
いう形は万葉集には原則として存在しない。この歌の結句『月夜を』の『を』は、格助
詞の『を』ではなく、間投助詞的な『を』で、詠嘆の意を表しているのであろう(佐竹
昭広「『恋ふ』の歴史」『国語通信』105号)」
と注釈あり。



4月9日
張らろ──芽をふいた。「張れる」の訛り。連体形。
川門──川の渡し場。
清水──「せみど」は「清水」の訛り。訛りとするよりは東国特有の語とすべきか。
立ち処平すも──立っている所を踏みならしている。「ならす」は踏んで平にする。
 上記、水島義治『校註万葉集東歌・防人歌』新増補改訂版(笠間書院)から摘記引用。


4月11日
島木赤彦『万葉集の鑑賞及び其の批評』(講談社学術文庫)は、この歌
について、こう言っている。
「さざれ波が磯(磯はもと石〈いそ〉であって広く水辺の石多き所を指

す。必ずしも海に限らない)を越す。その「越す」を巨勢(こせ)の地
名に言いかけたのであって、言いかけであっても、直観的にいっている
ところに命がある。後世の言いかけのごとく、語呂合せに類した言いか
けと違う(語呂合せとは、例えば「音にのみ菊(聞く)の白露」のごと
き言いかけである)。その巨勢路(大和国)なる能登湍川の音の清(さ
や)けきを嘆じたのであって、いったん第三句を名詞で止め、更に句を
起して「音のさやけさ」と切り、「激つ湍ごとに」と置いて、句法を倒
置したところ、前後の関係かえって自然であって、曲折の状におのずか
ら勢いがあり、あたかも、その川ぞいの道を行きつつ、時々急湍(きゅ
うたん)の迸(はし)るを見かつ聞くの感あらしむるところ、川瀬の流
るる調子と歌の調子と相合致しているごとき想いがするのである。
 写生の究極は、対象と作者と全く合致するところにあるという消息
は、かような歌によって覚(さと)ることができ、その合致は、歌の調
子にまで現れてこなければ徹しておらぬということも、同じくかようの
歌によって覚ることができるであろう。なお、歌には結句が最も重大な
働きをなすということも、この歌等によって、よく了し得るところであ
ろうと思うのである」。

越路の能登瀬川を詠んだものとする説もある。その際、第二句は「磯越
路なる」。第二
・三句の原文は「礒越道有 能登湍川」。「いそこせぢなる」と読む例
は他に、鶴久・
森山隆編『萬葉集』によれば、武田祐吉『増訂萬葉集全註釈』。

波多小足は伝未詳。続日本紀に見える波多広足、足人、百足らと同族か
といわれる。万葉集に収められる歌はこの一首。(稲岡耕二編『万葉集
事典』学燈社)



4月14日
題詞に
「但馬皇女の、高市皇子の宮に在りし時に、窃(ひそ)かに穂積皇子に接(まじ)はり
し事、既に形(あら)はれて御作(つく)りたまひし歌一首」(新日本古典文学大系
『萬葉集一』)
とあり。

人言を繁み言痛み──「を…み」については3月17日のメモ参照。「人言」は「世間の
噂」、「言痛し」は「噂がひどい。うるさくて困る」(岩波古語辞典)。
己が世に──「世」は「一生。生涯」(岩波古語辞典)。

なお、穂積皇子とのことについては2月7日のメモを。


4月15日
背な──夫を親しんで言う。ナは接尾語。
丸寝せば──着物もぬがずに丸寝をなさるならば。マルネはマロネ。マルネは防人歌の
みに二例。あるいはマロネの訛りとすべきか。旅先などで着物を着たまま寝ること。ご
ろ寝。
家なる──家に居る。イハはイヘの訛り。
 上記、水島義治『校註万葉集東歌・防人歌』新増補改訂版から摘記引用。



4月16日
筑波嶺──筑波山。山頂が男体・女体(876メートル)の二峰に分れ、眺望絶佳。古く
から「かがひ」で知られる東国屈指の名山。山頂の意ではなく、筑波山一帯の意。
新桑繭の衣──新しい野蚕(くわご)の繭で作った着物。〔下略〕
あやに──むしょうに。
 上記、水島義治『校註万葉集東歌・防人歌』新増補改訂版から摘記引用。


4月17日
大伯皇女は天武天皇の皇女、大津皇子の同母姉。

題詞の「大津皇子の屍(かばね)を葛城(かづらき)の二上山(ふたかみやま)に移し
葬(はぶ)る時に、大伯皇女の哀傷(かな)しびて作らす歌二首」の一。
口語訳「岩のほとりに生えている馬酔木を手折(たお)ろうとはしてみるけれど、これ
を見せることのできる君がこの世にいるとは、世の人の誰もが言ってくれないではない
か」。
「古代には、死者に逢ったことを述べて縁者を慰めてやる習慣があった。たとえば、人
麻呂が妻を亡くしたとき、人びとは言ったという。あなたの恋い焦がれる妻は『大鳥の
羽(は)がひの山』にいると(210)。しかし、大伯皇女にはこの種の何も言ってくれ
る人はいなかった。なぜか。大津が世間をはばかる罪人であったからにちがいない。つ
けても、『見すべき君が在りと言はなくに』の秘める痛恨は底が知れない。ここに皇女
の孤独がある。秘めた怒りさえある。誰もそう言ってくれない現実において、誰が弟
『二上山』を見守ろうというのか。うつそみの人たる『我れ』しかいないのである。
 ………
 大伯皇女は、弟大津に関する六首以外には歌を残さない。歌人としては弟に生き弟に
殉じたようなこの純粋と徹底が、えも言えず尊い。大伯は歌に示した生き方をその後実
行しつづけたのであろう、文献は以後ずっと彼女に沈黙を守らせ、十四年ののちの『続
日本紀』大宝元年(701)12月27日の条に、皇女他界の記事をごく簡単に載せる。皇
女の薨年は四十一歳であった。
 大津皇子は、この時まで姉大伯の中で生きていた。そして、大伯が死んでも、六首の
歌によって、大津はもちろん、大伯も、永遠に生きつづけることになった。六首の歌が
存在するかぎり、二人は死ぬことがない。言語の力、文学の底力におののかずにはいら
れない」。
 ──上記引用、伊藤博『萬葉集釈注(一)』(集英社文庫)より。

 引用文中「うつそみの人たる『我れ』」は、題詞中の「歌二首」の一(165)の語句。
165歌は10月掲載予定。



4月19日
海人小舟──「丸木舟のようなものであったと思われる。発掘された縄文後期の丸木舟
の中には、帆綱を掛けるのに用いたらしい突起の付いたものがあるという(須藤利一編
『船』)」(新日本古典文学大系『萬葉集二』)。
帆かも張れると見るまでに──「帆でも張ったのかと見るほどに」(新日本古典文学大
系『萬葉集二』)。
浦廻──「《ミは、めぐる意の動詞ミ(廻)と同根、湾曲したところ》岸の曲がって入
りこんだ所。浦のめぐり」(岩波古語辞典)。

高野正美氏によれば、
「鞆の浦は瀬戸内航路の要港であった。当時の山陽道(陸路)は十数キロ離れたところ
を通っていたようだから(『古代日本の交通路』III)、これは海上から見た景であろう。
海上遥かに見える寄港地の波立つさまを、海人の小舟が帆を上げた景に見立てている。
国土を褒め称える国見歌には「…見れば〜見ゆ」という表現様式があり、この歌も完全
ではないがその様式を踏まえたものである。海人の舟が出漁し、賑わうさまは豊穣な海
の証であり、これは見立てによってこの地を称えた土地褒めの歌。万葉の叙景歌は、こ
うした旅中の景を詠むことに始まっている」
(多田一臣編『万葉集ハンドブック』〈三省堂〉所収、「万葉秀歌=作者未詳歌」)。


4月20日
題詞「久米禅師の、石川郎女を娉(よば)ひし時の歌五首」(新日本古典文学大系『萬
葉集一』)の第一首。

み薦刈る──「信濃」にかかる枕詞。
真弓──「檀(まゆみ)でつくった丸木の弓」(岩波古語辞典)。

久米禅師と石川郎女とのあいだに交された贈答歌五首についての興味深い解説が、伊藤
博『萬葉集釈注(一)』(集英社文庫)にある。今日掲載の歌に関連する部分は下記の
とおり。
「久米という法師が石川郎女という女性と結婚した時に互いに交わした歌五首であるが、
男の歌と女の歌とが入り交じって登録される形態は、これが初見である。
 五首は、『弓』を『引く』ことを的に据えながら妙味ある展開をくりひろげる。
 まず、冒頭の禅師の歌は、
  信濃産の弓の弦(つる)を引くように、私があなたの手を取って引き寄せたら、
  貴人ぶってイヤとおっしゃるでしょうかね。
という意。第四句『貴人さびて』の底には相手の郎女を『貴人』ならぬ『女』とする認
定がある。のっけからふざけているわけで、二人のあいだにはすでに親和の関係が成り
立っている。その関係の上に立って共寝の楽しみに入ろうと誘いかけたのがこの歌で、
一首は逆説による結婚申しこみの歌といえる」。


4月21日
第四句──原文、諸本によって異同あり。「ヲハクルワザヲ」の読み方は、山田孝雄
『萬葉集講義』による。「弓に弦を張ることを『はく』(下二段動詞)といった。弓は
射る前に弦を張る」(新日本古典文学大系『萬葉集一』)。

伊藤博『萬葉集釈注(一)』(集英社文庫)は、昨日引用の文に引き続きこう述べる。
「誘いの真意を女はむろん知っていた。そこで、二つの条件をからかいの中に封じこめ
て、男に投げかけた。すなわち、女は、その第一首で、
  信濃の真弓を実際に引きもしないで弦をかける方法なんか知っているとは、
  世間では誰も言わないものですがね。
とうたい、相手の歌の序詞を、当時の贈答の習わしとして郎女自身の喩(たと)えに転
換し、『弦はくるわざ』に『女を従える方法』の意を寓しつつ答えた。『本気になって
女を誘ってもみないで女を従えることなどできるものですか』と、しっぺ返しをくわせ
たのである。このしっぺ返しの裏には、『あなたが本気だったら、応じてもよろしい』
という心が顔を覗かせている」。
伊藤氏は以下のやりとりも肌理細かく分析・解説し、このくだりの終結部でこう述べる。
「五首には、男女が妻問い(共寝)をなしとげる時の模範的なやりとりを示す歌として
語り継がれる歴史があったらしい。そこには、法師すらかくうたうという意識を伴う享
受の姿勢もあったのかもしれない。
 この場合、五首の男と女とがともに伝未詳の人で、『久米禅師』は、古くから歌●
〔にんべんに「舞」の字〕や物語の伝承に深くかかわった氏族久米氏にちなみの名であ
ること、また、『石川郎女』も、のちの藤原朝に、複数の男性と多彩な戯歌を交わした
なまめかしい女?石川郎女?(107〜10・126〜9)の風姿を連想させることなどが興
味をひく。磐姫皇后の四首(85〜8)と同様、この五首にも?埋もれた作者?があり、
『久米禅師』と『石川郎女』とは、藤原朝の頃、その作者によって作り出された物語上
の人物であった可能性が高い」。



4月23日
手作り──手で織った布。織り上げた布を多摩の川原で水に晒し、日に曝すのである。
ここまで同音利用の序詞。
さらさらに──更に更に。この上にもこの上にも。
何そこの児の──どうして今自分が抱擁しているこのわが妻が。
ここだ──こんなにひどく。
 上記、水島義治『校註万葉集東歌・防人歌』新増補改訂版から摘記引用。



4月25日
第一句原文は「●女乃」(●=女偏に采〈正しくは本来のノヅメに木〉)、古来さまざ
まに読まれてきた模様。本アンソロジーでは、斎藤茂吉『萬葉秀歌』の「初句の四音ウ
ネメノは稍(やや)不安であるから、どうしてもウネメと訓まねばならぬなら、或(あ
るい)はウネメラノとラを入れてはどうか知らん」という提言に従い、「采女らの」と
した。


4月26日
題詞──「弓削皇子に献(たてまつ)りし歌一首」、
下の句口語訳──「以前降った薄雪が消え残っているでしょうか」(新日本古典文学大
系『萬葉集一』)。

島木赤彦は、この歌について、『万葉集の鑑賞及び其の批評』(講談社学術文庫)でこ
う述べる。
「人麿歌集中の歌であるが、歌柄が人麿らしく、高邁(こうまい)雄渾(ゆうこん)の
姿が他の作者ではとうてい至り難い感があるので、……人麿作と推測しているのである。
 『みけ向ふ』は南淵山の枕詞、南淵山は明日香(あすか)つづきの地にある山、『は
だれ』は『古義』〔鹿持雅澄『萬葉集古義』〕等に『雪』と解されているが、淡雪若
(も)しくは斑雪(はだれゆき)等であろう。これは、作者が明日香より遠く南淵山を
望み見て、そこに消え残れる淡雪の光を寂(さみ)しみつつ詠んだのであって、特に、
巌を捉(とら)えたるところ、写生の機微に入れる心地がし、古き南画の秀品に接する
ごとき感がある。材料はただ巌に残る雪である。それがかくのごとき気品を生み来るの
は、作者の自然に参する心が深く至り得ているからであって、この辺になると、もう、
堂々として芸術の高所に入り得ているという感がする。
 第一二三句を受けた『には』が遠く第五句の『たる』に至って結ばれている勢いに、
高く踏み、遠く目を騁(は)せている姿が見える。『降れるはだれか』の『か』は、一
面に疑い一面に感嘆の声を強めたのであって、声調の山を成し得ている。非常にいい。
世の論者、往々、人麿を人事的叙情詩人なりとし、赤人を自然詩人なりとするが、小生
はそれに従わない。ただ二人の歌品に各々異なる長所あることだけは確かである」。



4月27日
題詞──「弓削皇子の、紀皇女(きのひめみこ)を思ひし御歌四首」の第4首、
口語訳──「大船が停泊している港の光景のように、揺れ動きためらって、もの思いに
痩せてしまった、あの人のせいで」(新日本古典文学大系『萬葉集一』)。

弓削皇子も紀皇女も、天武天皇の子で、異母きょうだい。

4月28日
[口語訳]
「男子たるもの、無為に世を過ごしてよいものか。万代までも語り継ぐに足る名という
ものを立てもせずに」(伊藤博『萬葉集釈注 三』〈集英社文庫〉)。

題詞(訳)──「山上臣(おみ)憶良の、病気が重くなった時の歌一首」、
左注(訳)──「右の歌一首は、山上憶良臣が重病になった時に、藤原朝臣(あそみ)
八束(やつか)が河辺(かわへの)朝臣東人(あずまひと)を使者として病状を尋ねさ
せた。そこで憶良臣は返答をし終わって、しばらくしてから、涙を拭き悲しみ嘆いて、
この歌を口ずさんだ」(新日本古典文学大系『萬葉集二』)。

伊藤博氏によれば、「結果として、これが憶良の辞世歌となった」。

藤原八束は、藤原北家の祖の房前(ふささき)の三男。憶良を見舞わせたのは19歳の時、
733(天平5)年。聖武天皇の寵愛厚く、760年に真楯(またて)の名を賜る。この嫡
流である北家が後世栄えた。古来、万葉集撰者のひとりと目される。憶良は八束の家庭
教師であったとする説がある。



4月29日
防人に行くは誰が夫と──防人に行くのはどなたの旦那さんなのと。
問ふ人を──聞いている人を。「人」は女である。
見るが羨しさ──見ることの羨しさよ。
物思ひもせず──物思ひもしないで(防人に行かなければならぬ夫を見送る、私の胸は
悲しみでいっぱいなのに)。
 上記、水島義治『校註万葉集東歌・防人歌』新増補改訂版から摘記引用。


4月30日
塚本邦雄撰『清唱千首』(冨山房百科文庫)は、この歌について
「立つてもゐても、赤裳の裾を引いて帰つて行つたその人の姿が面影に顕(た)つ。た
たらを踏むやうに畳みかけて歌ひ出す第二句まで、第三句からは甘美な夢を反芻するか
に陶然と、まさに心がそのまま調べになつた美しい歌」
と言っている。





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