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《新版 万葉秀歌365》5月

5月1日(月) あかねさす紫野行き標野行き 野守は見ずや君が袖振る☆── 額田王〔巻一・20〕*
        あかねさす むらさきのゆき しめのゆき のもりはみずや きみがそでふる  ぬかたのおおきみ

  2日() 紫草のにほへる妹を憎くあらば 人妻故に我れ恋ひめやも☆── 大海人皇子〔巻一・21〕
        むらさきの にほへるいもを にくくあらば ひとづまゆゑに あれこひめやも  おおあまのみこ

  3日() 蝦鳴く神奈備川に影見えて 今か咲くらむ山吹の花── 厚見王〔巻八・1435〕
        かはづなく かむなびかはに かげみえて いまかさくらむ やまぶきのはな  あつみのおおきみ

  4日() 大宮の内まで聞ゆ網引すと 網子ととのふる海人の呼び声☆── 長意吉麻呂〔巻三・238〕
        おほみやの うちまできこゆ あびきすと あごととのふる あまのよびこゑ  ながのおきまろ

  5日() うつせみの命を惜しみ波に濡れ 伊良虞の島の玉藻刈り食む☆── 麻続王〔巻一・24〕
        うつせみの いのちををしみ なみにぬれ いらごのしまの たまもかりはむ  おみのおおきみ

  6日(土) 見渡せば明石の浦に燭す火の 穂にそ出でぬる妹に恋ふらく☆── 門部王〔巻三・326〕
        みわたせば あかしのうらに ともすひの ほにそいでぬる いもにこふらく  かどべのおおきみ

  7日() 子持山若鶏冠木の黄葉つまで 寝もと我は思ふ汝は何どか思ふ☆── 東歌〔巻十四・3494〕
        こもちやま わかかへるでの もみつまで ねもとわはもふ なはあどかもふ  あずまうた

  8日(月) あしひきの八峰の雉鳴き響む 朝明の霞見れば悲しも☆── 大伴家持〔巻十九・4149〕
        あしひきの やつをのきぎし なきとよむ あさけのかすみ みればかなしも  おおとものやかもち

  9日() 水鳥の鴨の羽色の春山の おほつかなくも思ほゆるかも☆── 笠女郎〔巻八・1451〕
        みづとりの かものはいろの はるやまの おほつかなくも おもほゆるかも  かさのいらつめ

 10日(水) さ寝らくは玉の緒ばかり恋ふらくは 富士の高嶺の鳴沢の如☆── 東歌 駿河国歌〔巻十四・3358〕
        さぬらくは たまのをばかり こふらくは ふじのたかねの なるさはのごと  あずまうた するがのくにのうた

 11日() 吾妹子を早見浜風大和なる 吾をまつ椿吹かざるなゆめ☆── 長皇子〔巻一・73〕
        わぎもこを はやみはまかぜ やまとなる われまつつばき ふかざるなゆめ  ながのみこ

 12日() 後れ居て恋ひつつあらずは追ひ及かむ 道の隈廻に標結へわが背☆── 但馬皇女〔巻二・115〕
        おくれゐて こひつつあらずは おひしかむ みちのくまみに しめゆへわがせ  たじまのひめみこ

 13日(土) 武庫の浦の入江の渚鳥羽ぐくもる 君を離れて恋に死ぬべし☆── 作者未詳〔巻十五・3578〕
        むこのうらの いりえのすどり はぐくもる きみをはなれて こひにしぬべし  さくしゃみしょう

 14日() あり衣のさゑさゑしづみ家の妹に 物言はず来にて思ひ苦しも☆── 東歌〔巻十四・3481〕
        ありきぬの さゑさゑしづみ いへのいもに ものいはずきにて おもひぐるしも  あずまうた

 15日(月) 見れど飽かぬ吉野の川の常滑の 絶ゆることなくまた還り見む☆── 柿本人麻呂〔巻一・37〕
        みれどあかぬ よしののかはの とこなめの たゆることなく またかへりみむ  かきのもとのひとまろ

 16日() 朝日照る島の御門におほほしく 人音もせねばまうら悲しも☆── 日並皇子尊宮の舎人〔巻二・189〕
        あさひてる しまのみかどに おほほしく ひとおともせねば まうらがなしも  ひなみしのみこのみことのみやのとねり

 17日(水) 妹が家も継ぎて見ましを大和なる 大島の嶺に家もあらましを☆── 天智天皇〔巻二・91〕*
        いもがいへも つぎてみましを やまとなる おほしまのねに いへもあらましを  てんじてんのう

 18日(木) 秋山の木の下隠り行く水の 我こそ益さめ思ほすよりは☆── 鏡王女〔巻二・92〕
        あきやまの このしたがくり ゆくみづの われこそまさめ おもほすよりは  かがみのおおきみ

 19日() もののふの八十をとめらが汲みまがふ 寺井の上の堅香子の花☆── 大伴家持〔巻十九・4143〕
        もののふの やそをとめらが くみまがふ てらゐのうへの かたかごのはな  おおとものやかもち

 20日(土) 君が行く海辺の宿に霧立たば 吾が立ち嘆く息と知りませ☆── 作者未詳〔巻十五・3580〕
        きみがゆく うみへのやどに きりたたば あがたちなげく いきとしりませ  さくしゃみしょう

 21日() 吾が恋はまさかもかなし草枕 多胡の入野の奥もかなしも☆── 東歌 上野国歌〔巻十四・3403〕
        あがこひは まさかもかなし くさまくら たごのいりのの おくもかなしも  あずまうた かみつけののくにのうた

 22日(月) 高座の三笠の山に鳴く鳥の 止めば継がるる恋もするかも☆── 山部赤人〔巻三・373〕
        たかくらの みかさのやまに なくとりの やめばつがるる こひもするかも  やまべのあかひと

 23日() わが宿の夕陰草の白露の 消ぬがにもとな思ほゆるかも☆── 笠女郎〔巻四・594〕
        わがやどの ゆふかげくさの しらつゆの けぬがにもとな おもほゆるかも  かさのいらつめ

 24日(水) わが背子が朝明の姿よく見ずて 今日のあひだを恋ひ暮すかも── 柿本人麻呂歌集〔巻十二・2841〕
        わがせこが あさけのすがた よくみずて けふのあひだを こひくらすかも  ひとまろのかしゅう

 25日(木) 昨日今日君に逢はずてする術の たどきを知らに音のみしそ泣く☆── 狭野茅上娘子〔巻十五・3777〕
        きのふけふ きみにあはずて するすべの たどきをしらに ねのみしそなく  さののちがみのおとめ

 26日() 御食向ふ南淵山の巖には 降れる斑雪か消え残りたる── 柿本人麻呂歌集〔巻九・1709〕
        みけむかふ みなぶちやまの いはほには ふれるはだれか きえのこりたる  かきのもとのひとまろのかしゅう

 27日(土) 言ふことの恐き国そ紅の 色にな出でそ思ひ死ぬとも── 大伴坂上郎女〔巻四・683〕
        いふことの かしこきくにそ くれなゐの いろにないでそ おもひしぬとも  さかのうえのいらつめ

 28日() 我ろ旅は旅と思ほど家にして 子持ち痩すらむ我が妻かなしも☆── 防人 玉作部広目〔巻二十・4343〕
        わろたびは たびとおめほど いひにして こめちやすらむ わがみかなしも  たまつくりべのひろめ

 29日() 吾が背子は仮廬作らす草なくは 小松が下の草を刈らさね☆── 中皇命〔巻一・11〕
        あがせこは かりほつくらす かやなくは こまつがしたの かやをからさね  なかつすめらみこと

 30日() 古に恋ふる鳥かもゆづるはの 御井の上より鳴き渡り行く☆── 弓削皇子〔巻二・111〕*
        いにしへに こふるとりかも ゆづるはの みゐのうへより なきわたりゆく  ゆげのみこ

 31日() 古に恋ふらむ鳥はほととぎす けだしや鳴きし吾がおもへるごと☆── 額田王〔巻二・112〕
        いにしへに こふらむとりは ほととぎす けだしやなきし あがおもへるごと  ぬかたのおおきみ




〈今日の秀歌メモ〉

5月1日
題詞──天皇(すめらみこと)、蒲生野(かまふの)に遊猟(みかり)したまふ時に、
額田王が作る歌

作者、額田王は鏡王の娘。大海人皇子(おおあまのみこ 後の天武天皇)に嫁して、十
市皇女(とおちのひめみこ)を生む。

上記と併せて、伊藤博氏の『萬葉集全注 巻第一』(有斐閣)からこの歌についての所説
をつぎに摘記引用。

あかねさす──「紫」の枕詞。茜色の指し出る意で、紫草の根の赤いことをにおわす。
「あかね」は茜草科の蔓性植物。根が赤く染料に用いた。
紫野──紫草の生えている野。
標野行き──前句の言い換え。「標野」は占有の標(しるし)をつけて一般の立入りを
禁じた野。ここは、私が監視されている野(私を占有する夫の領域)の意を表わし、自
分が人妻であることをにおわす。万葉集の男女関係の歌では、「標」は女性を独占し他
人が侵さないよう監視する意に用いることが多い。……その「標野」に「君」が入って
来て往来し、袖まで振るので、困惑の表現「野守は見ずや」が下に続く。だから、中止
法「行き」の下に間を置き、相手を詰問する語気を感じとる必要がある。古代の中止法
にはそういう多彩な表現力がある。
野守は見ずや──「野守」は野の番人。「標野」の縁語で、野を占有している天智天皇
を寓したもの。「野守」「山守」などが女を独占する人(夫)の意に用いられることも、
万葉集の男女関係の歌の常。……「や」は反語。
君が袖振る──袖を振るのは愛情を示す所作。「振る」は上の「が」に応じて連体形で、
詠嘆がこもる。
【考】[蒲生野行幸]二一番歌の左注にも日本書紀を引くように、天智七年(六六八)
五月五日に行なわれた。薬草や染料の紫草を採ったり、新しく生えた鹿の角……を取っ
たりする、いわゆる薬狩(くすりがり)であった。……天智七年の蒲生野遊猟も、「大
皇弟・諸王、内臣また群臣」のことごとくを従えた、近江朝廷を挙げての行事であった。
この年一月三日、天智天皇の晴れての即位があり、その勢いをも駆ってのことであろう。
歌は、そういう行幸での集宴の場で唱われた。そのことは、題詞の「天皇、蒲生野に遊
猟したまふ時に」にも示されており、それだからこそ、歌は公的な「雑歌」の部立に収
められたのである。よって、二〇〜二一番歌を三角関係の恋歌と見る古来の解釈には従
わない。そういう歌であれば、これは、巻二の「相聞」の部に収められたはずである。
[歌の道具立て]一首の素材に目を向けると、すべてが本日の遊猟における嘱目の景物
ばかりであることに気づく。すなわち、「赤根」「紫野」「標野」「野守」等々、第四
句までには、本日の狩の場や獲物に関する語が一つずつ、きまって登録されている。こ
のはっきりした特徴は、結句の「袖」もまた、「大皇弟・諸王、内心または群臣」以下
ことごとに従っていたその宮廷人たちの着飾りの「袖」と無縁ではないことを思わせる。
いわば、即興の物名歌の感が強い。このことは、この歌が、盛大な本日の狩の目ぼしい
景物を各句毎に道具立てにしてうたった、優婉にして人工的な、「恋」を主題とする歌
であったことを物語る。
 こうして、一首は個の実用の「相聞歌」ではけっしてなく、天智天皇以下宮廷男女の
集う宴席で、本日の狩を祝福し人々の興を満たすためにうたった、雅の「恋歌」であっ
たと見られる。つまり、額田王が「人妻」(天智妻)であるのは宴の座の上、歌の表現
の上での擬制でしかなかったと考えられる。だからこの場合、額田王の「君が袖振る」
の「君」は、誰かの和歌(答歌)が返ってくるまでは具体的ないかなる人物も指してい
るのではない。この歌に反応を示して当意即妙に和したその人がこの「君」に代入され
るのである。集宴の座の中からすっくと立って和した人がいる。大皇弟大海人皇子、す
なわち額田王の本当の夫であった。
 その歌が次の二一番歌である。和したその瞬間、大皇弟は、宴席(歌の表現)の上で、
「標野」に侵入した「君」となって立ち現れることになった。


5月2日
昨日の額田王の歌に和するこの歌について、引きつづき伊藤博氏の『萬葉集全注 巻第
一』(有斐閣)からその所説をつぎに摘記引用。

題詞──皇太子(ひつぎのみこ)の答へたまふ御歌 〔注〕明日香の宮に御宇天皇、諡
(おくりな)して天武天皇といふ
左注──紀には「天皇の七年丁卯(ひのとう)〔正しくは、「戊辰(つちのえたつ)
」〕の夏の五月五日に、蒲生野に縦猟(みかり)す。ときに大皇弟(ひつぎのみこ)・
諸王(おほきみたち)、内臣(うちのまへつきみ)また群臣(まへつきみたち)、皆悉
(ことごと)に従(おほみとも)なり」といふ。

紫草の──「にほふ」の枕詞。前歌の「あかねさす」に対し、同じく前歌中の草の名を
用いたもの。男女の贈答とか問答とかにおいては、相手の歌の言葉を取りこんで応ずる
のが作法であった。相手の言葉をとりこみつつ、いささかの意味転換を加え、しっぺ返
しの形で親愛の情を示すしきたりであった。そして、そのしっぺ返しのありようで力量
や風雅のほどが評価された。これは、民謡(歌垣)における男女の掛け合いの伝統を引
くもので、和歌交換の重要な作法として後世までずっと承け継がれていく。
にほへる妹を──「にほふ」は赤い色が美しく照り映える意。……「を」は感動を含む。
憎くあらば──「憎し」は好まぬの意。現代のように強い憎悪の意味はない。
人妻故に──恋うてはならぬ人妻であるあなたゆえに、の意。「人妻」に手を出すこと
は社会の厳しい禁忌とされた。「故」は原因、理由を表わす。文脈の上では、逆説的に、
〜であるのにの意を示すことが多い。「故」に対して「為(ため)」は目的を表わし、
二つの語には使いわけがある。なお、この句と結句とは、人妻であることを示す前歌の
「標野行き野守は見ずや」に当意即妙に応じた掛け合い。ここにしっぺ返しがある。
我れ恋ひめやも──「恋ふ」は恋い焦れるの意。好きな人または好ましい物と離れてい
る時に、その対象にひきつけられてしまう心の苦しみを表わす。だから、「恋」は好き
な対象と逢えば消滅し、離れればまた生ずると考えられた。このように、一人思い焦が
れる意の「恋ふ」にかかわる第一人称代名詞は、ア・アレとなり、ワ・ワレを拒否する
傾向がいちじるしい。この理由としては、普通、ア系統はより多く単数性を、ワ系統は
より多く複数制を示すということが指摘されている。アとワとの違いについては、アは
彼我一体的・主客混淆的であるのに対し、ワは彼我対立的・主客弁別的と見る説……が
あって、示唆に富む。「やも」は反語。
【考】[紫草のにほへる妹]……推定すれば、天智七年(六六八)、額田王は最低三十
八、九歳であった。……
 その初老四十歳程度の女性を、大海女皇子は「紫草のにほへる妹」と言ってのけた。
ここには、その場に臨んで事情を知っている者に言外に感知されるしっぺ返しがある。
満座あげての笑いがあったであろう。それは王をいたく侮辱したことになるけれども、
「君」を買って出た男が本当の夫であればこそ許された発言である。笑いは大きければ
大きいだけ、座興を高めるのであり、座興が高ければ高いだけ、「紫草のにほへる妹」
の占有を公認された天皇の権威が持ち上げられるのである。「紫草のにほへる妹」とう
たっているから、額田王のこの時の年齢を三十歳程度で押さえたいという一般の傾向は、
論理が逆である。
 事柄は「人妻故に」でも同様で、前歌の【考】で触れたように、人妻(天智妻)でも
ないのに、本日の素材を道具立てにして人妻(天智妻)であるかのように唱えた歌に対
し、本当の夫が「人妻故に我れ恋ひめやも」とすまして、またいきり立つように応じた
ところに、逆に満座の笑いをそそるしっぺ返しがあったわけで、ここでも天皇の座は暗
々裡に高められている。
 なお、この蒲生野唱和歌を行幸先の宴歌と明言したのは、山本健吉・池田弥三郎の
『万葉百歌』であった。ただし、歌の解は本書とは異なる。
[蒲生野唱和歌の意義]蒲生野行幸の宴席でこのような歌が唱和された意義は何であっ
たか。一座を楽しませることを狙っているのはいうまでもない。が、事もあろうに、皇
太子夫妻が道化の役を買って出た裏には、座興に事寄せたもっと高次な意味があったと
見なければなるまい。
 思うに、天智七年(六六八)五月五日の遊猟に従った女たちは、実際には誰の妻であ
り誰の恋人であろうと、その日一日は、宰領者である天皇(天智)の一夜妻(ひとよづ
ま)と意識されていたのではないか。さような暗黙の理解が供奉する男女に共通して存
在していたのではないか。天智を擬制の夫とする歌は、こうした共通理解を背景にして
ごく自然に登場したのであろう。そして、宰領者を本日の女性の独占者としてうたうこ
とが同時に本日の遊猟とその主宰者とを讃美することにつながったのであろう。
 そもそも、本日の狩の景物を道具立てにすること自体が名立ての讃美だったはずだ。
そこに占有者を天皇とする寓意があるのだから、讃美の寓意はいっそう強化される。と
すると、本日の従者(おおみとも)中の第一人者である「皇太子」が我が妻を天智妻と
見立ててうたったことも、暗々裡に服従と讃美を代表して示すことにつながったのであ
ろう。ここでは、何げない機智とまぎれた爆笑とが重要な意味を担っているように見受
けられる。
 この種の歌を唱わねばならぬことは、額田王には最初からわかっていたのかもしれな
い。が、そうだとしても、こうした宴席を領導した額田王が天智朝の遊宴の花であった
ことに変りはなく、王は、宮廷儀礼の第一義的な場(八一七〜一八のような場)で祭祀
の王として歌を詠んだだけでなく、第二義的な場(一六,二〇〜二一のような場)にお
いても、御言持ち歌人(いわゆる代作歌人)としての才能と面目を発揮した歌人であっ
たと見ないわけにはいかない。


5月4日
新日本古典文学大系『萬葉集一』によれば(摘記引用)、

題詞──長忌寸(いみき)意吉麻呂の、詔(みことのり)に応へし一首
〔口語訳〕宮殿の中まで聞こえて来ます、網を引くため、網子たちを指揮する海人の呼
び声が。
▽持統天皇の問いに答えた作であろう。「大宮」は難波の宮。時刻は早朝。オ・ウ・ア
・ア・アの頭韻が快い。難波宮の昔を偲ぶ歌として後世もよく知られた(謡曲・芦刈)。


5月5日
「麻続王の伊勢国の伊良虞の島に流されし時に、人の哀傷して作りし歌」(23番歌題
詞)に麻続王が「感傷して和せし歌」(訓み下し、新日本古典文学大系『萬葉集一』)。

うつせみの──(現世の、の意で)「世」「人」「命」「身」などにかかる枕詞(例解
古語辞典第二版)。



5月6日
伊藤博『萬葉集釈注 一』によれば、
「旅先の、物を見る歌で、
  遠く見渡すと、明石の浦に海人(あま)の燭す火が見える、このちらつく
  漁火(いさりび)のようにおもてに出てしまった。あの人への思いが。
という意。旅先で見た物を、故郷の妻恋しさの序に呼びこんだところが趣向。奈良朝風
流侍従の一人であった人の手腕が出ているというべきか。
 上三句では旅先の物に、下二句では故郷の妻に気を使っているわけで、一首の中に旅
の歌の作法を封じ込めたもの」。



5月7日
子持山──群馬県渋川市北方。北群馬郡、吾妻郡、沼田市にまたがる山。標高1296メ
ートル。性崇拝の山として知られる。「子持」に「子どもを持つ」の意をこめていると
見るべきか。
共寝の床で男が問いかけた形の歌(新潮日本古典集成)。
若鶏冠木──若い楓の木が。カヘルデは今のカエデ。モミジ。若葉と紅葉が美しい。葉
がカヘルの手のような形をしていることからカヘルデといった。カヘデはそれがつまっ
た形。
黄葉つまで──葉が赤く色づくまで。モミツは四段動詞で、草木の葉が、秋、霜にあっ
て赤または黄に変わることをいう。
寝もと──寝ようと。「も」は推量の助動詞「む」の訛り(ここは意志)。
 上記、水島義治『校註万葉集東歌・防人歌』新増補改訂版から引用。


5月8日
斎藤茂吉『萬葉秀歌』は、この歌について、
「暁に鳴く雉を聞く歌、といふ題詞がある。山が幾重にも畳まつてゐる、その山中の暁
に雉が鳴きひびく、そして暁の霧がまだ一面に立ち籠めて居る。その雉の鳴く山を一面
にこめた暁の白い霧を見ると、うら悲しく身に沁むといふのである。この悲哀の情調も、
恋愛などと相関した肉体に切なものでなく、もつと天然に投入した情調であるのも、人
麿などになかつた一つの歌境と謂(い)ふべきで、家持の作中でも注意すべきものであ
る」
と言っている。



5月9日
大伴家持に贈った歌と題詞にあり。
「上三句は『おほつかなくも』の序詞」で、口語訳「水鳥の鴨の羽の色の緑の春山のよ
うに、あなたのお気持がはっきりせず気がかりに思えます」(新日本古典文学大系『萬
葉集二』)。


5月10日
さ寝らくは──「共寝することは。サヌはナ行下二段の終止形(サは接頭語)。ラクは
準体助詞」。
恋ふらくは──「恋しく思うことは」。
 上記、水島義治『校註万葉集東歌・防人歌』新増補改訂版から摘記引用。

塚本邦雄撰『清唱千首』(冨山房百科文庫)は、この歌について
「逢うて寝た間はほんのたまゆら、玉の緒よりも短いのに、胸の中の騒立(さわだ)つ
恋心は富士の鳴沢の音さながら。萬葉風誇大表現の一パターンながら、二句切れの弾む
調べと快く華やかな詞とが、鮮やかな印象を創り上げた。東歌の中でもめでたいこと抜
群」
と言っている。


5月11日
作者は天武天皇皇子。

塚本邦雄撰『清唱千首』(冨山房百科文庫)は、この歌について
「椿はすなはち妻。早見浜風は一刻も早く会ひたい意と風足の早さを兼ねた懸詞。八代
集の縁語・懸詞を先取りしたやうな、巧妙な言葉の脈絡が面白い。何よりも一点の紅の
椿の印象は鮮明。『吹かずあるな・ゆめ』は必ず吹け」
と言っている。


5月12日
伊藤博『萬葉集釈注 一』によれば、

「穂積皇子に勅(みことのり)して、近江の志賀の山寺に遣はす時に、但馬皇女の作ら
す歌一首」と題詞にあり。

穂積皇子と但馬皇女、そしてその夫の高市皇子との間柄について「口さがない人びとの
噂をいちばん気にしたのは持統女帝その人であったらしい。女帝は、法会(ほうえ)な
どの勅使に事寄せて、穂積皇子を一時志賀の山寺崇福寺(すうふくじ)に閉居させると
いう処置をとったと覚しい。……女帝には、太政大臣高市皇子の体面のみならず、穂積
皇子の立場をもつくろう意図があったものと見える」。

〔口語訳〕「あとに一人残って恋い焦がれてなんかおらずに、いっそのこと追いすがっ
て一緒に参りましょう。道の隈の神様ごとに標(しめ)を結んでお祈りをして下さい。
あなた」。

「この歌の第四・五句『道の隈みに標結へ我が背』は、普通、『あなたの道筋がわかる
ように、道の曲がり角ごとに道しるべをつけて下さい』と解されているが、的を射ては
いないらしい。『道の隈』は、たしかに大きな曲がり角ではある。しかし、そこは三叉
路とか国境とかが多く、塞(さい)の神のこもるおそろしき所とされた。だから道の隈
みには道祖神が祭ってある。古代の旅人は、その神に幣(ぬさ)を祭り、生い茂る樹木
などに標を結んで旅の安全を祈った。その隈みに私の分もこめて標を結んでおいて下さ
いというのがこの下二句の意味で、それは、そのことによって自分の方では神祈りせず
に一挙に道を進めてあなたに追いつくことができるという意を背景に据えた表現と見ら
れる。
奇抜な発想の、それだけに、世間の噂などものかは、一途に穂積皇子に心を寄せる前歌
〔秋の田の穂向きの寄れる片寄りに 君に寄りなな言痛くありとも──10月掲載〕の熱
情がいっそう激していることを示す歌と知られる。しかし、それは歌の上だけのことで、
皇女があとを追っていくことは実際には許されなかったであろう。勅命で宮廷の寺に赴
いた皇子を、私(わたくし)の恋心だけをひっさげて追いすがりうるすべなど、彼女た
ちには与えられていなかったのではないか」。

本日までに、穂積皇子の歌は2月7日、但馬皇女の歌は4月14日に掲載(いずれもメモ併
載)。


5月13日
「新羅(しらき)に遣はされし使人(しじん)等、別れを悲しみて贈答し、海路に及び
て情(こころ)を慟(いた)めて思ひを陳(の)べき。……」
とある巻十五冒頭の題詞のもとに排列される145首の筆頭に置かれる歌。「使節を見送
る妻の歌であろう」。「『羽ぐくもる』は、羽で包む意の『羽ぐくむ』の受動形。羽に
包まれ大切に守られている意」。
 上記引用、新日本古典文学大系『萬葉集一』から。

渚鳥──洲にいる鳥(岩波古語辞典)。


5月14日
島木赤彦『万葉集の鑑賞及び其の批評』(講談社学術文庫)は、この歌について、
「『あり衣』は織り衣(ぎぬ)であるともいい、絹布であるという説もあり、あるいは
『たま衣(ぎぬ)』と訓んで、玉をつけた衣と解するもあり、よくわからないが、いず
れにせよ、よき衣(きぬ)であるらしい。そういう衣は、著(き)る人の動作につれて、
さわさわと音を立てる。音を立てるが、それは騒ぎつつなお静かな音であり、沈んだ音
である。『さゑさゑしづみ』がそれであって、『あり衣の』は、それを言わんがための
枕詞である。『さゑ』は『さゐ』の訛り、『さゐ』は『騒(さゐ)』である。『しづ
み』は『鎮み』『沈み』『静み』等の意である。
 国もと出立の折は、今も昔も取りこみが多い。心も身もさわさわして落ち著(つ)き
がないうちに沈ましい心持がある。それを形容するために『あり衣』をもってしている
のをみても、古代人の写生のいかに微に入っているかを窺(うかが)い得るのである。
さような沈んだ心持で家を出たから、わが妹(いも)に言うべきことも多く言わずに来
たのであろう。それを思い出して『思ひ苦しも』という心はなはだ憐れである。蒼惶
(そうこう)として別れ、惆悵(ちゅうちょう)として懐(おも)うところの心理が、
真に徹し微に徹している」
と言っている。


5月15日
持統天皇の吉野行幸の際に詠まれた、人麻呂の「吉野讃歌」二組の長反歌のうち第一組
の反歌。

伊藤博『萬葉集全注 巻第一』によれば、
「○常滑の 『常滑』は川底や川岸の、苔などが生えてなめらかにつるつるしていると
ころ(澤瀉〔おもだか〕久孝『万葉古径』二)。上三句は実景の序。『絶ゆることな
く』を起こす。二句以上にわたる修辞句を序詞という。序詞は枕詞と違い、固定性がな
く喚起性も少ない。用言にかかわることが多く、景物と人事とを対比して人間の心を述
べる典型的な構造。かかわる用言においては、上の景物に属する意味と下の本旨を規定
する意味との二重性を常に持つ。今も、厳密には、『……“常滑” が絶えることがない、
そのように絶えることなくずっと “かへり見む”』というように理解すべきところ。
○またかへり見む 『かへり見る』は再び元の所へ帰って見る意。『また』を伴うと、
すべてこの意になる。この句は、空間を将来に追いやった表現で、人間や物象が無限に
流れる時間の中で泳いでいることを自覚する者の言葉である。時間の刻みの中で涙を流
した近江荒都歌〔一・29(長歌)〕の第二反歌『またも逢はめやも』を陽性にした表現
で、この句によって、反歌は長歌からの離陸と発展を遂げることができた。長歌の空間
はここで永遠の時間の上に載せられ、讃歌の機能を全うしたのである。先例としては、
有馬皇子の詠と伝える『ま幸くあらばまたかへり見む』(二・141〔11月掲載〕)が早
咲きに過ぎるかたちで存在する程度。簡単な言葉のようでいて、累積を意識する『ま
た』(またも)が歌言葉として登場してくるのは万葉時代に入っての『またも逢はめや
も』『またかへり見む』からであった。過去の時間の中に人間を横たえる額田王の『宇
治のみやこの仮廬し思ほゆ』(一・7〔9月掲載〕)とともに、もっと重視すべき詩句で
ある。


5月16日
天武天皇を父とし、持統天皇を母とする草壁皇子の死去(持統三〈689〉年)を悼んだ
舎人らの挽歌23首の一つ。

「日並皇子尊」という名は、「日(天皇)と並ぶ皇子の命(みこと)の意で、皇太子を
いう。古代では草壁皇子に対してのみいわれた名」(伊藤博『萬葉集釈注 一』)。

口語訳「朝日の照る島の御殿にはうっとうしくも人の物音ひとつしないので、しんそこ
悲しい」(同上)。


5月17日
天智天皇の代を示す標題のもとにおける第一首。
題詞「天皇、鏡王女に賜ふ御歌一首」。

伊藤博『萬葉集釈注 一』によれば、
「題詞に『天皇』とあるけれども、歌は中大兄皇子が、大化元年(645)から白雉(は
くち)4年(653)まで難波の都にいた頃の詠で、第三十六代孝徳天皇の皇太子であっ
た時代のものらしい。……『大島の嶺』からの眺望裡(大和側)に鏡王女の家があった
ので、難波に住む中大兄皇子が、
  せめてあなたの家だけでもいつもいつも見ることができたらなあ。大和のあの
  大島の嶺にわが家でもあったらなあ。
とうたったのである。ここには、高い所から低い所を見納めて偲ぶという、古くからの
国見歌の発想がある」。
「鏡王女は……額田王の姉とする見解もあって(本居宣長『玉勝間』以下)魅力に富む。
鏡王女と額田王は、二人して皇極女帝の宮廷に出仕し、鏡王女は中大兄皇子に、額田王
は大海人皇子に見そめられたのであるらしい」。

この歌に鏡王女が和して返した歌を、次の日に掲載。

5月18日
前日に引きつづき、伊藤博『萬葉集釈注 一』によれば、
「 秋山の木々の下を隠れ流れる川の水かさが増してゆくように、表には出さなくても
  私の思いの方がまさっているでしょう。あなたが私を思って下さるよりは。
という意のこの一首は、『我れこそまさめ』を起こす上三句の序が見事で、力量の高さ
を思わせる。『秋山』を登場させたのは相手が国見歌の発想に立って『春』を匂わせて
きたのに反応してのことであろう。山の頂を取りこんだ歌に対して山の谷底を呼びこん
でいるのも、意識してのことであろう。そして歌いぶりは、表面で相手の思いを軽んじ
ながら深い親愛の情を発散させるかたちになっている」。


5月19日
斎藤茂吉『萬葉秀歌』によれば、
「堅香子草の花を攀(よ)ぢ折る歌一首といふ題詞がある。堅香子は山慈姑(かたく
り)で薄紫の花咲き、根から澱粉の上品を得る。寺に泉の湧くところがあって、其(そ
の娘たちが水を汲みに来て、清くとほる声で話しあふ、それが可憐でいかにも楽しさう
である。物部(もののふ)が多くの氏に分かれてゐるので、『八十』の枕詞とした。此
処(ここ)の『八十をとめ』は、多くの娘たちといふこと、『まがふ』は、入りまじる
ことだから、此処は入りかはり立ちかはり水汲みに来る趣である。……若い娘等の動作
にむかつて客観的の美を認めて、それにほんのりした情を抒(の)べてゐるのである」。

なお、
「題詞の『攀折』は引っぱって折ること」(新日本古典文学大系『萬葉集四』)。


5月20日
遣新羅使歌群の一つで、13日掲載歌に次ぐ、旅立つ夫への妻の贈歌。
夫は「秋さらば〔秋になったら〕相見むものをなにしかも〔どうして〕霧に立つべく嘆
きしまさむ」(3581)と返している。



5月21日
水島義治『校註万葉集東歌・防人歌』新増補改訂版によれば(摘記引用)、
まさかもかなし──現在も悲しく切ない。「カナシは愛しとも考へられるが、寧(む
し)ろ今の『切ない』にあたるであらう」(土屋文明『萬葉集私注』)。「まさか」は
現在。マサは正、カは所の意。
草枕──枕詞。「多胡」にかかる。
多胡の入野──群馬県多野郡多胡村(現在、吉井町)。入野は山間に入りこんだ野。こ
の空間的奥を将来すなわち時間的奥に懸けた巧みな技巧。三・四句同音反復式序詞。
奥──まさかに対して先のこと。将来。



5月22日
島木赤彦『万葉集の鑑賞及び其の批評』(講談社学術文庫)によれば、
「この歌第三句までは例の序詞であって、歌の本意は第四五句にある。万葉集に序歌多
けれども、この歌のごとく上下微妙な即(つ)き方をしている序歌は少ないであろう。
読めば読むほど津々(しんしん)たる滋味が湧き出るという心地がする。
 山に鳴く鳥は四十雀(しじゅうから)・小雀(こがら)・山雀(やまがら)・鶸(ひ
わ)・目白の類であろう。木がくれに鳴く小鳥の音は、止むかと思えば継ぎ、継ぐかと
思えば止む。この辺の写生実に微細所(びさいしょ)を捉えているのであって、それを
序として「止めばつがるる恋もするかも」が心ゆくまで生き得ている。かような歌にな
れば、全く赤人の独自壇(どくじだん)であって、人麿その他の作者の何人(なにび
と)も及び得ないところである。
「恋も」の「も」は感動詞であって、かような場合の情趣を生かすに微妙な力を持って
おり、「止めば継ぐ」とようにいわずして「継がるる」と所動的にいうている心もはな
はだ可憐であって、この辺すべて赤人の特徴が遺憾なく現れている。これを赤人の傑作
とするに躊躇しない。
 前に言いしごとく、赤人は人麿のごとき豪壮さがなくて、誰よりも深い沈潜がある。
沈潜の心は幽(かす)かにして静かな心である。それがよく現れれば、おのずからにし
て天地の寂寥(せきりょう)に合し、悪しくすると、平板にして生気のないものにな
る」。



5月23日
巻四に一括配置される笠女郎(伝未詳)が大伴家持に贈った歌二十四首の一つ(万葉集
に収められている笠女郎の歌全二十九首はすべて家持への恋歌)。

口語訳「私の家の庭に生えている夕暮の物陰の草に置く露のように、消え入らんばかり
に無性にあなたのことが思われます」(新日本古典文学大系『萬葉集一』)。
がに──「助詞。自動詞・完了の助動詞『ぬ』の終止形に続き、自然にそうなってしま
うほどにの意を示す」(同上)。



5月25日
我ろ旅は──自分の旅は。「ろ」は連帯格助詞。
旅と思ほど──どうせつらい旅だと覚悟はしているけれども。オメホドはオモヘドの訛
り。
家にして──家に居て。イヒはイヘの訛り。
子持ち痩すらむ──子供をかかえて生活の苦しさに痩せているであろう。メチはモチの訛
り。
我が妻かなしも──わが妻がかわいそうでならない。ミはメ(妻)の訛り。


5月29日
伊藤博『萬葉集釈注 一』によれば、
(題詞)「中皇命、紀伊(き)の温泉(ゆ)に往(いでま)す時の御歌」三首の第二首。
「斉明女帝の紀伊の湯行幸時のもので、往路での詠らしい」。
「中皇命については諸説があるが、神々と天皇との中(あいだ)にあって祭祀を司る女性
の神名的呼称(神としてとらえた場合の呼称)と見られる。中皇命には、天皇ときわめて
血の近い女性が選ばれるのが常であったらしい。舒明朝において『中皇命』になりうる人
は、舒明天皇〔と皇極=斉明女帝〕の娘で、中大兄皇子の〔同母〕妹、大海人皇子の〔同
母〕姉にあたる間人皇女(はしひとのひめみこ)をおいては考えにくい」。
この歌は、
「  我が君は仮廬をお作りになる。佳(よ)きかやがないのなら、
   小松の下のかや、あのかやをお刈りなさい。
の意で、一行の旅宿りの仮廬を作るための聖なるかやは、神聖な小松に覆われた地面にあ
ると、『我が背子』(中大兄)に教えた歌と思われる。あの小松の下のかやを葺いた仮廬
にこもってこそ、けがれのない一夜を送ることができるというのである。この歌、第二句
で切って味わうべきである。『は』と提示されたからには『作らす』で切れると見るべき
であろう。そして、第二句で切って読めば、『仮廬』が大切なものとして重く据えられて
いることがわかる」。



5月30日
弓削皇子は天武天皇皇子。

新編日本古典文学全集『萬葉集1』(小学館)によれば、
題詞「吉野宮に幸(いでま)せる時に、弓削皇子、額田王に贈り与ふる歌一首」。
「この歌が詠まれたのは〔天武帝歿後の〕持統四年(690)五月か五年四月のいずれかで
あろう」。
「古に恋ふる鳥かも──このイニシヘはイニシヘ人の意。天武天皇のことをいう。
ゆづるはの御井──そばにゆずりはの木があるところから名付けられた離宮の泉か。ユヅ
ルハは、とうだいぐさ科の常緑高木ゆずりはの古名。
泣き渡り行く──北方飛鳥の方へ鳴き行くのをいうのであろう。この歌と次の歌との鳴ク
は人の泣くことを裏に含めて用いた」。



5月31日
新編日本古典文学全集『萬葉集1』(小学館)によれば、
口語訳「亡き人を 慕うという鳥とは、ほととぎすです おそらく鳴いたことでしょう 
わたしが(あなたの父君天武天皇を)お慕いしているように」。





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