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《新版 万葉秀歌365》6月

6月1日(木) あをによし奈良の都は咲く花の 薫ふがごとく今盛りなり── 小野老〔巻三・328〕
        あをによし ならのみやこは さくはなの にほふがごとく いまさかりなり  おののおゆ

  2日() 天離る鄙の長道ゆ恋ひ来れば 明石の門より大和島見ゆ☆── 柿本人麻呂〔巻三・255〕
        あまざかる ひなのながちゆ こひくれば あかしのとより やまとしまみゆ  かきのもとのひとまろ

  3日() 家にてもたゆたふ命波の上に 浮きてしをれば奥処知らずも☆── 作者未詳〔巻十七・3896〕
        いへにても たゆたふいのち なみのうへに うきてしをれば おくかしらずも  さくしゃみしょう

  4日() 鈴が音の早馬駅家の堤井の 水を賜へな妹が直手よ☆── 東歌〔巻十四・3439〕
        すずがねの はゆまうまやの つつみゐの みづをたまへな いもがただてよ  あずまうた

  5日() 吾も見つ人にも告げむ葛飾の 真間の手児名が奥つ城処☆── 山部赤人〔巻三・432〕
        われもみつ ひとにもつげむ かつしかの ままのてごなが おくつきところ  やまべのあかひと

  6日(火) 富士の嶺を高み恐み天雲も い行きはばかりたなびくものを☆── 高橋虫麻呂〔巻三・321〕
        ふじのねを たかみかしこみ あまくもも いゆきはばかり たなびくものを  たかはしのむしまろ

  7日() 玉かぎる夕さり来れば猟人の 弓月が岳に霞たなびく☆── 柿本人麻呂歌集〔巻十・1816〕
        たまかぎる ゆふさりくれば さつひとの ゆつきがたけに かすみたなびく  かきのもとのひとまろのかしゅう

  8日(木) 沖辺行き辺に行き今や妹がため 我が漁れる藻伏し束鮒☆── 高安王〔巻四・625〕
        おきへゆき へにゆきいまや いもがため わがすなどれる もふしつかふな  たかやすのおおきみ

  9日() ひさかたの雨の降る日をただ独り 山辺に居れば鬱せかりけり── 大伴家持〔巻四・769〕
        ひさかたの あめのふるひを ただひとり やまへにをれば いぶせかりけり  おおとものやかもち

 10日(土) 風に散る花橘を袖に受けて 君がみ跡と偲ひつるかも☆── 作者未詳〔巻十・1966〕
        かぜにちる はなたちばなを そでにうけて きみがみあとと しのひつるかも  さくしゃみしょう

 11日() 足柄の彼面此面にさす罠の かなるましづみ子ろ吾紐解く☆── 東歌〔巻十四・3361〕
        あしがらの をてもこのもに さすわなの かなるましづみ ころあれひもとく  あずまうた

 12日() 事しあらば小泊瀬山の石城にも 隠らば共にな思ひそ吾が背☆── 娘子〔巻十六・3806〕
        ことしあらば をはつせやまの いはきにも こもらばともに なおもひそわがせ  おとめ

 13日(火) 今更に何をか思はむうち靡き 心は君に寄りにしものを── 安倍女郎〔巻四・505〕
        いまさらに なにをかおもはむ うちなびき こころはきみに よりにしものを  あべのいらつめ

 14日() 山吹の立ちよそひたる山清水 汲みに行かめど道の知らなく☆── 高市皇子〔巻二・158〕
        やまぶきの たちよそひたる やましみづ くみにゆかめど みちのしらなく  たけちのみこ

 15日(木) 春過ぎて夏来るらし白妙の 衣乾したり天の香具山── 持統天皇〔巻一・28〕
        はるすぎて なつきたるらし しろたへの ころもほしたり あめのかぐやま  じとうてんのう

 16日() 飛ぶ鳥の明日香の里を置きて去なば 君があたりは見えずかもあらむ☆── 元明天皇〔巻二・189〕
        とぶとりの あすかのさとを おきていなば きみがあたりは みえずかもあらむ  げんめいてんのう

 17日(土) 暁と夜烏鳴けどこの丘の 木末がうへはいまだ静けし☆── 作者未詳〔巻七・1263〕
        あかときと よがらすなけど このをかの こぬれがうへは いまだしづけし  さくしゃみしょう

 18日() 信濃なる須我の荒野にほととぎす 鳴く声聞けば時過ぎにけり── 東歌〔巻十四・3352〕
        しなのなる すがのあらのに ほととぎす なくこゑきけば ときすぎにけり  あずまうた

 19日() 大和には鳴きてか来らむ呼子鳥 象の中山呼びそ越ゆなる☆── 高市黒人〔巻一・70〕
        やまとには なきてかくらむ よぶこどり きさのなかやま よびそこゆなる  たけちのくろひと

 20日(火) 苦しくも降り来る雨か三輪が崎 狭野の渡りに家もあらなくに── 長意吉麻呂〔巻三・265〕
        くるしくも ふりくるあめか みわがさき さののわたりに いへもあらなくに  ながのおきまろ

 21日() たまさかに吾が見し人をいかならむ 縁をもちてかまた一目見む── 柿本人麻呂歌集〔巻十一・2396〕
        たまさかに あがみしひとを いかならむ よしをもちてか またひとめみむ  かきのもとのひとまろのかしゅう

 22日(木) 福のいかなる人か黒髪の 白くなるまで妹が声を聞く── 作者未詳〔巻七・1411〕
        さきはひの いかなるひとか くろかみの しろくなるまで いもがこゑをきく  さくしゃみしょう

 23日() 夕闇は道たづたづし月待ちて 行かせ吾が背子その間にも見む☆── 大宅女〔巻四・709〕
        ゆふやみは みちたづたづし つきまちて ゆかせあがせこ そのまにもみむ  おおやけめ

 24日(土) 玉くしげ見諸戸山を行きしかば 面白くして古思ほゆ☆── 作者未詳〔巻七・1240〕
        たまくしげ みもろとやまを ゆきしかば おもしろくして いにしへおもほゆ  さくしゃみしょう

 25日() 多胡の嶺に寄せ綱延へて寄すれども あにくやしづしその顔良きに☆── 東歌〔巻十四・3411〕
        たごのねに よせつなはへて よすれども あにくやしづし そのかほよきに  あずまうた

 26日() 妹が見し楝の花は散りぬべし 我が泣く涙いまだ干なくに☆── 山上憶良〔巻五・798〕
        いもがみし あふちのはなは ちりぬべし わがなくなみた いまだひなくに  やまのうえのおくら

 27日(火) このころは恋ひつつもあらむ玉櫛笥 明けてをちよりすべなかるべし☆── 狭野茅上娘子〔巻十五・3726〕
        このころは こひつつもあらむ たまくしげ あけてをちより すべなかるべし  さののちがみのおとめ

 28日() かくばかり恋ひむものそと知らませば 遠く見つべくありけるものを── 柿本人麻呂歌集〔巻十一・2372〕
        かくばかり こひむものそと しらませば とほくみつべく ありけるものを  かきのもとのひとまろのかしゅう

 29日() 人はよし思ひ息むとも玉縵 影に見えつつ忘らえぬかも☆── 倭大后〔巻二・149〕
        ひとはよし おもひやむとも たまかづら かげにみえつつ わすらえぬかも  やまとのおおきさき

 30日() 相思はぬ人を思ふは大寺の 餓鬼の後に額つくごとし── 笠女郎〔巻四・608〕
        あひおもはぬ ひとをおもふは おほてらの がきのしりへに ぬかつくごとし  かさのいらつめ





〈今日の秀歌メモ〉

6月2日
斎藤茂吉『萬葉秀歌』によれば、
「羈旅(きりょ)八首中の一。これは西から東へ向つて帰つて来る時の趣で、一首の意
は、遠い西の方から長い海路を来、家郷恋しく思ひつづけて来たのであつたが、明石の海
門まで来ると、もう向うに大和が見える、といふので、羈旅の歌としても随分自然に歌は
れてゐる。それよりも注意するのは、一首が人麿一流の声調で、強く大きく豊かだといふ
ことである。そしてゐて、浮腫のやうにぶくぶくしてゐず、遵勁(じゅんけい)とも謂ふ
べき響だといふことである。かういふ歌調も万葉歌人全般といふ訣(わけ)には行かず、
家持の如きも、かういふ歌調を学んでなほここまで到達せずにしまつたところを見れば、
何の彼(か)のと安易に片付けてしまはれない、複雑な問題が包蔵されてゐると考ふべき
である」。

なお、
天離る──鄙にかかる枕詞。


6月3日

海路旅をした人の歌。
新日本古典文学大系『萬葉集四』によれば、
口語訳「家にいても揺れ止まぬ不安定な命である。波の上に浮いていると、果てもわから
ぬまま、なおのこと不安である」。


6月4日
水島義治『校註万葉集東歌・防人歌』新増補改訂版によれば、
「鈴が音の──枕詞。駅鈴の音のする意で、下の『早馬』にかかる。
早馬駅家──宿駅・宿場。ハユマはハヤウマの約で駅馬(宿駅に公用のために飼い備えて
いる馬)。ウマヤはムマヤとも言い、厩(馬小屋)または駅・駅家(えきか・やけ・やく
け)のことをいう。駅家は上代駅伝制度上の中核的施設で大宝令によれば、諸道三〇里
(今の四里=一六キロ強)毎に置き、官使の用に応じて人馬を継ぎ立てて、宿・食を供し
た。
堤井──湧き水を板や石などで囲って堰きとめた溜り井。
賜へな──いただきたいものだ。「たまへ」は謙譲語で、下二段活用の「たまふ」(賜・
給)の未然形。物を受ける、いただくの意、とくに飲食についていう(これに対して四段
に活用する『たまふ』は与えるの意の尊敬語)。「な」は未然形を承け、話し手の希望・
意志あるいは勧誘の意を表わす終助詞(東歌に三例)。
妹が直手よ──あなたの手から直接に。直接にあなたの手で。『よ』は格助詞、手段・方
法を示す。この『妹』は宿駅の遊行女婦か」。


6月5日
新日本古典文学大系『萬葉集一』によれば、
「『葛飾の真間手児名』は万葉集伝説歌謡の女主人公の一人。巻九の『挽歌』にも『高橋
連虫麻呂歌集』所出として長歌と反歌(1807・1808)が掲げられている。その長歌によ
ると、彼女は、美貌に惹かれて言い寄る男たちの求婚を斥け、世をはかなんで入水自殺し
た。『葛飾の真間』は下総国葛飾郡。巻十四には『下総国歌』として彼女を詠んだ短歌二
首(3384・3385)が載る」。

島木赤彦『万葉集の鑑賞及び其批評(前編)』(岩波版)はこう言っている。
「葛飾の真間の手児名は、今も手児名神社ありて人の参詣するほど、人口に膾炙せる伝説
ゆゑ、その説明は略す。手児名は、もと、美人の称なりしならんも、葛飾のこの地にては
一少女専有の名の如くなれり。赤人時代にも有名な伝説であつたであらう。その手児名の
墓を見た作者の感激が、斯様な率直な歌になつて現れたところ甚だ面白い。子どもがよき
翫具などを得た時、自分にも小躍りして喜ぶと共に、これを人に示さずには居られぬもの
である。赤人の感激が之(これ)に類して『吾れも見つ』と言ひ『人にも告げむ』と言つ
てゐる。そこが甚だ自然であり、率直であつて、以下単に『葛飾の真間の手児名がおくつ
きどころ』と名詞を並べて押し通してゐる所益々面白い。赤人にして斯様なぶつきらぼう
の歌を作してゐるのは、余程感激が至つたものと思はれる。佳作とするに足りる。長歌の
反歌である」。


6月6日
「不尽山を詠みし歌一首」(長歌)の反歌。

伊藤博氏の口語訳(『萬葉集釈注 二』)
「富士の嶺が高く恐れ慎まれるので、天雲さえも行きためらって
 たなびいているではないか、ああ」。

リービ英雄氏の英訳(『英語でよむ万葉集』岩波新書)
‘Because of Fuji's lofty heights,
 even the heavenly clouds,
    in their awe,
 are thwarted from their path
 and hang their trailing.’


6月7日
塚本邦雄撰『清唱千首』(冨山房百科文庫)は、この歌についてこう言っている。
「巻十『春の雑歌』冒頭、人麿歌集よりの七首の中。『玉蜻 夕去来者 佐豆人之 弓月
我高荷 霞霏●〔あめかんむりに「微」の正字体〕』の万葉仮名表記を見れば、水際立っ
た言語感覚が胸に沁み入る。きらめくやうな春宵、うるむ巻向山の峰。枕詞の『猟人の』
が単なる修飾ではなくて、古代のハンターを髣髴させる。巻頭から『霞霏●』(かすみた
なびく)の連なる中に、『弓月が岳』が抜群の眺め」。


6月8日
新編日本古典文学全集『萬葉集1』(小学館)によれば、
題詞「高安王、包める鮒を娘子(をとめ)に贈る歌一首」、
注「沖辺行き──この沖は川か池などの中央部の深みをいう。
  今や──このヤには疑問の働きがない。
  我が漁れる──スナドルは魚を捕えること。
  藻伏し束鮒──苞(つと)の中に藻と共に詰めて生きたまま
  届けられた小鮒をいうか。ツカは一握りの長さ」、
口語訳「沖辺に行ったり 岸辺に寄ったりしてやっと今 あなたのために わたしがつか
まえて来た 藻伏し束鮒です」。


6月10日
伊藤博氏の口語訳(『萬葉集釈注 五』)
「風にこぼれ散る橘の、その美しい花を袖に受けとめて、
 あなたにゆかりあるものとして、懐かしく思いました」。


6月11日
巻十四目録に「相模国の相聞往来の歌」とあるなかの一首。

伊藤博『萬葉集釈注 一』によれば、
「  足柄山のあちら側にもこちら側にも張り渡してある罠に獲物が引っかかって
   鳴り響く、その間の静まるのを待って、かわいい子と私とは紐を解く。
の意と覚しい。『かなるましづみ』は『か鳴る間静み』(鹿持雅澄『萬葉集古義』)の意
と考えられる。大方の解は、第四句をそう見ながらも、その「かなるま」までを「しづ
み」の序とし、『……罠の音のように人の騒ぎが静まって(家の者が寝静まって)から、
あの子と私とは紐を解く』の意と見ている。こういう解も可能であろう。だが、『かなる
ま』と『しづみ』とが一句の中で緊密に結び合い、上四句の叙述の重いことを考えると、
本来、狩猟の収穫を祝う野外の宴などで唱われた即興の歌と見、先に記したような意と解
する方が自然ではあるまいか。野合の男女はいかなる音にも神経を払うのが古今の常。本
日の狩の素材や実態をとりこんで、男女のそういう心情を述べてはしゃいだのがこの一首
だったのではなかろうか」。


6月12日
新編日本古典文学全集『萬葉集4』によれば、
この歌は、竹取の翁の歌とともに巻十六前半に多く見られる「歌が作られたいわれ、背景
の記述を伴った、いわゆる歌物語形式のもの」のひとつ。
口語訳「何か起ったら 小泊瀬山の 石城にでも こもるなら一緒です
    思い悩まないでくださいあなた」、
左注訳「右は、言伝えによると、かつて女がいて、父母に内緒で、ひそかに男と交わっ
た。その男は女の両親に叱られるのを恐れて、だんだんためらう気持が生じた。そこで、
娘子はこの歌を作って、その夫に贈り与えたのだ、という」、
「弱気になった男を励ます女の歌」。


6月14日
新編日本古典文学全集『萬葉集1』によれば、
題詞「十市皇女の薨(こう)ぜし時に、高市皇子尊の作らす歌三首」の第三首。
左注「紀に曰く、『(天武天皇)七年戊寅の夏四月……、十市皇女、卒然(にはか)に病
発(おこ)りて宮の内に薨ず』といふ」。「紀」〔日本書紀─天武紀〕に付いている注に
は、「天武天皇が天神地祇を祭るために設けた」祭場への行幸当日の午前四時、「先導は
既に出発し、百官整列、天皇出御の直前」に十市皇女の急死があった、とあり。

伊藤博『萬葉集釈注 一』は、こう言っている。
「高市皇子がこの折なぜ挽歌を捧げたのかはよくわからない。高市は壬申の乱の折、十九
歳にして天武軍を指揮した。皇女の夫〔天智天皇第一皇子の大友皇子〕を死なしめた張本
人の一人である。その宿命のゆえの鎮魂ということも考えられるし、異母弟〔十市皇女の
母は額田王〕としての悲嘆ということも考えられる。しかし、その歌柄からは、通常いわ
れるように、壬申の乱後二人が夫婦の関係にあったことによる悲しみと見るのがおだやか
であろう」、
この歌は、
「 黄色い山吹が咲き匂っている山の清水、その清水を汲みに行きたいと思うけれど、
  どう行っていいのか道がわからない。
という意。山吹に『黄泉(よみ)』の『黄』を、山清水に『泉』をにおわしており、皇女
のいます黄泉の国まで逢いに行きたいが、道も知られずどうしてよいのかわからないこと
を嘆いている。『黄泉』をにおわせた点に興を注ぐと、やや技巧が気になる歌だが、山清
水のほとりに美しく山吹の咲いているさまを思い浮かべ、そういう所に皇女が住んでいる
と幻想する作者の心、もっといえば、そのようなすがすがしい光景の中にいてほしく、い
させてやりたいと願う作者の切実な思いに重心を置いて味わうべきであろう。上三句が現
世の経験や現象に即しているので、むしろ冥界を人間の息吹の中に呼びこんだようなとこ
ろがあり、したがってまた、冥界も山奥神秘(さんおうしんぴ)の映像を帯びて印象づけ
られ、妙味のある歌である。
 この三首は、再び逢うすべもなくて寝られない夜が続く(156)──思えば何とはかな
いちぎりであったことか(157)──この上はあの人の所へ何とかして尋ねて行きたいが
すべがわからない(158)、という次第になっている。つまり、第三首は第一首の思いを
深めて全体を結ぶようになっている。いとしい人を失った者の心情の流れはこういう次第
であろうという自然の筋立てを持っており、そうした観点で味わうと、第三首の重みと余
韻がますます照りまさる。この時、十市皇女は三十歳程度、高市皇子は二十五歳であっ
た」。


6月16日
新日本古典文学大系『萬葉集一』によれば、
題詞「和銅三〔710〕年春二月、藤原宮から寧楽宮に遷る時に、御輿を長屋の原に停め
て、古郷を遙かに望みてお作りになった歌〔下略〕」。

飛ぶ鳥の──「明日香」にかかる枕詞。

元明天皇は、稲岡耕二編『万葉集事典』〈学燈社〉の「万葉集全作者事典」によれば(摘
記引用)、
「四十三代。天智天皇の皇女。草壁皇子の妃となり、文武・元正天皇を生む。慶雲四年
(707)六月文武崩御により、七月即位。霊亀元年(715)九月、元正に譲位。養老五年
(721)、平城宮で崩、六一歳」。


6月17日
左注に「右の十七首、古歌集に出づ」とあるなかの、「時に臨みて」と題詞のある十二首
のひとつ。

この歌について、島木赤彦『万葉集の鑑賞及び其批評(前編)』(岩波版)は言う、
「古歌集といふ本にあると左註した歌であつて、時代も作者も不明なれども、奈良町以前
のものであらう。〔賀茂〕真淵も巻七は『歌もいささか古く』と言うてゐる。『あかと
き』は明時(あかとき)で、夜の明くる時である。今人は『あかつき』と言うてゐる。夜
のしらしらと明くる頃ほひとなつて夜鴉が啼(な)く。光未だ満ちずして暁の気已(す
で)に動く心である。この丘といふのは作者の立ちつつある(或は行きつつある)丘であ
る。『この』の用法極めて適切なるに注意せよ。鴉啼いて夜将(まさ)に明けんとすれ
ど、わが行く丘の木末の上は未だ静かであるといふのであつて、夜の色の猶(なお)木の
間にあるを思はしめるのみならず、『静けし』の一語が東方の曙光と鴉とに響いて、暁の
清爽にして静粛な気が歌全体に瀰漫(びまん)するを覚えしめる。この歌、恐らく初夏よ
り初秋の間の作であらう。古歌集所出中の秀逸である」。


6月19日
題詞によれば、(譲位して太上〈だいじょう〉天皇と称した)持統天皇の吉野行幸時の
歌。

伊藤博『萬葉集釈注 一』によれば、
「一首は、
  故郷大和には、今はもう来て鳴いていることであろうか。ここ吉野では、
  呼子鳥が象の中山を、妻を呼び立てながら飛び越えている。
の意。
 呼子鳥の「呼ぶ」に言寄(ことよ)せて望郷の心を述べている。「呼子鳥」は、万葉で
は、晩春に子(妻)を呼び求めて鳴く鳥とされているけれども、いかなる鳥とも知られな
い。普通,郭公かといわれているが、山口爽郎『万葉集の鳥』には、託卵して子を呼び続
けるホトトギス科の四種の鳥(カッコウ・ツツドリ・ホトトギス・ジュウイチ)をいうと
している。つづく「象の中山」は、象山を、二つの地域の中間にある山としてとらえた表
現。東方には喜佐谷(きさだに)をはさんで御船山があり、西方には御園(みその)上方
の山があり、その中間にあるのでこう呼んだと見るのが一般(犬養孝『万葉の旅』上な
ど)。
 一首には、この鳥のように、軽々と山を越えて行ければ、ただちに妻にあえるのに、と
いう心がひそんでいるのであろう。鳥だけをうたって深い郷愁を秘めた、手腕の高い歌で
ある。越えて見えなくなっていくものに思いを寄せている点も、五八の黒人歌と同じ趣向
である。


6月23日
島木赤彦『万葉集の鑑賞及び其批評(前編)』(岩波版)によれば、
「豊前国娘子(をとめ)大宅女の歌である。夕闇は道がたどたどしい。月の出るのを待つ
て行き給へ。その月の出るまでの間だけでも君を見んといふのであつて、綿々(めんめ
ん)の至情よく現れてゐる。斯様(かやう)の種類はややもすると甘くなるのであるが、
三ケ所に句を切り『行かせ吾が背子』といふ如ききびきびした調子に押してゐるゆゑ、甘
たるくない。さういふ調子に現れるのは作者主観が甘たるくないためであらう。この歌
『背子の帰り行く姿を月の光で見よう』とやうに解する人あるはわるい」。

また、新日本古典文学大系『萬葉集一』によれば、
「この歌は平安時代にも愛唱されたらしく、源氏物語(空蝉、若菜下)、伊勢集、新勅撰
集・恋四などに所見。普通、相聞歌では、男は早朝に帰って行くが、この歌は夕闇の別れ
である」。


6月24日
玉くしげ──枕詞。種々の語にかかるが、ここでは、ミの音を持つ地名「見諸戸山」にか
かる。

斎藤茂吉『萬葉秀歌』によれば(●はりっしんべんに「可」の字)、
「『見諸戸山』は、即ち御室処(みむろと)山の義で、三輪山のことである。『面白し』
は、感深いぐらゐの意で、萬葉では、●怜とも書いて居る。『生ける世に吾(あ)はいま
だ見ず言(こと)絶えて斯(か)く●怜(おもしろ)く縫える嚢(ふくろ)は』(巻四・
746)、『ぬばたまの夜わたる月を●怜(おもしろ)み吾が居る袖に露ぞ置きにけ
る』(巻七・1081)、『おもしろき野をばな焼きそ古草に新草まじり生(お)ひは生ふ
るがに』(巻十四・3452)、『おもしろみ、我を思へか、さ野つ鳥、来鳴き翔(かけ)
らふ』(巻十六・3791)等の例があり、現代の吾等が普段いふ、『面白い』よりも深み
があるのである。そこで、此歌は、三輪山の風景が佳くて神秘的にも感ぜられるので、
『いにしへ思ほゆ』即ち、神代の事もおもはれると云つたのである。平賀元義の歌に、
『鏡山雪に朝日の照るを見てあな面白と歌ひけるかも』といふのがあるが、この歌の
『面白』も、『おもしろくして古おもほゆ』の感と相通じてゐるのである」。


6月25日
新編日本古典文学全集『萬葉集 3』によれば、
「寄せ綱延へて──寄せ綱は物を引き寄せるための綱。下二段延フは長く延ばす意。何と
かして女をなびかせようと努めるたとえ。
あにくやしづし──未詳。ああ、憎らしいことよ、というような意味か。おんながいっこ
うになびき寄りそうにないので言うのであろう。
その顔良きに──カホヨシは複合形容詞。「形容端正、古記云、端正、俗語賀富好(かほ
よし)」(令集解・後宮職員令)。あんなに器量よしで」。


6月26日
妹──妻。
散りぬべし──もう散ってしまいそうだ。
干なくに──乾かないのに。
 上記、新編日本古典文学全集『萬葉集 2』から摘記引用。

巻五巻頭の、漢文を前文とする「大宰帥(だざいのそち)大伴〔旅人〕卿、凶問〔訃報〕
に報(こた)ふる歌一首」(793、9月掲載予定)に続く、漢詩文を伴う長歌「日本挽歌
一首」に含まれる反歌五首のひとつ。左注に「神亀五〔728〕年七月二十一日 筑前国守
山上憶良上(たてまつる)」とあり。

伊藤博『萬葉集釈注 三』によれば、
「〔旅人の〕形質両面に新しさのみなぎるこの作品〔793〕に刺激されて、続いて憶良が
彼自身これまで試みたことのない新形態の作品を詠み、旅人に返した。それが次に並ぶ漢
詩文と日本挽歌(補注─日本文による挽歌の意)で、これは、漢詩文と倭歌(やまとう
た)とを相並べた長大な連作をなす。……大伴旅人に奉ったもの。……〔旅人の妻のため
の〕追善供養として、憶良が旅人の立場になりきりながら作ったものと思われる」、
そして、掲載歌について、
「妻は筑紫の楝の花を賞(め)でながら死んで行った。咲くのも散るのも奈良より早い筑
紫の楝のほとんど散り果てた姿を目にしつつ、妻にちなみの物がここもかしこも消えてし
まうのを嘆いている。『あふち』に『逢ふ』を懸け、『散りぬべし』に再び逢うことがか
なわぬことを匂わせてもいよう。我が悲しみばかりが熱く残っていて、妻にえにしあるも
のはいたずらに遠ざかり冷えていく」。


6月27日
新編日本古典文学全集『萬葉集 4』によれば、
このころ──一般にこの数日間をいう。ただしここは、夜明けまでのわずかな時間をさ
す。
恋ひつつもあらむ──恋しく思いながらもなんとかこうして生きていよう、の意。
玉くしげ──ここはアクの枕詞。
をち──向こうのほう。ヲチカタともいい、一般に空間的に隔たった場所をさす。ここは
時間的に用いて、以降、以後、を意味する用法。


6月29日
伊藤博『萬葉集釈注 一』によれば、
題詞「〔天智〕天皇の崩(かむあが)りましし後の時に、〔妻〕倭大后の作らす歌一
首」、
「天智天皇はその十年(671)の十二月三日に他界、十一日に殯宮(あらきのみや)に納
められた。三日から十日までの、初七日にあたる間の詠と見て大過なかろう。
 大后の歌は、
  他人(ひと)はよしたとえ悲しみを忘れようとも
(それはかまわぬ)、
  私は玉縵(御蔭〈みかげ〉)のその君の面影が常にちらついて
  忘れようにも忘れられない。
の意。この歌では『玉縵影に見えつつ』が大切。『玉縵』は『影』(面影)の枕詞であ
る。しかし、ここに忽焉(こつえん)としてかような枕詞が用いられたについては何かわ
けがなくてはならない。そこで想起されるのは、古代の祭式に『玉縵』の形をした冠(か
げ)が用いられたことである。記紀安康天皇の条には『押木(おしき)の玉縵』(木の枝
の形をした立飾りのある金製または金銅製の冠で、あるいはそれに玉をとじつけたものか
という──古典大系『日本書紀』)というものが見え、人の生命(誠意)の象徴物とされ
ている。古代の葬礼の様相をあからさまに反映する記紀天の岩屋戸の条において、女神天
宇受売命(あめのうずめのみこと)がその身を装うた具の中にも、「天の真拆(あめのま
さき)」による神聖な『縵』がある。『万葉集』の新婚の賀歌(巻十三・3227〜9)に
も、祭主祝部(はふりべ)が『玉かげ』(玉縵)をつけている。
 これによれば、天智天皇の葬礼においても、人びとが『玉縵』の冠をかぶって亡魂を鎮
める行為がなされたと推測され、ここに葬礼の中心的存在であった大后が、『玉縵』の枕
詞を用いる契機があったと考えられる。『玉縵』は枕詞ではあるが、ただの枕詞ではな
かったのである。一様に『玉縵』を冠して魂祭りをするその光景から、『玉縵(御蔭)の
その君の面影が常にちらついて忘れようにも忘れられない』という悲しみは、自然とわい
てこよう。『他人(ひと)はよしたとえ悲しみを忘れようとも』という上二句の仮定も、
表情を固くして葬儀に奉仕するさまざまな人を見つめることの中から導かれた心情かもし
れない。祭式の行為にかかわりつつ、その座を見据えた個の情があると読む時、何の変哲
もないかに見えるこの一首に、大后の孤愁の嘆きが切実によみがえる」。





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