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《新版 万葉秀歌365》8月

8月1日(火) ぬばたまの夜の更けぬれば久木生ふる 清き川原に千鳥しば鳴く☆── 山部赤人〔巻六・925〕
        ぬばたまの よのふけぬれば ひさぎおふる きよきかはらに ちどりしばなく  やまべのあかひと

  2日(
) 石走る滝もとどろに鳴く蝉の 声をし聞けば京師し思ほゆ── 大石蓑麻呂〔巻十五・3617〕
        いはばしる たきもとどろに なくせみの こゑをしきけば みやこしおもほゆ  おおいしのみのまろ

  3日(
) 朝影に吾が身はなりぬ玉かきる ほのかに見えて去にし子ゆゑに☆── 作者未詳〔巻十一・2394〕
        あさかげに あがみはなりぬ たまかきる ほのかにみえて いにしこゆゑに  さくしゃみしょう

  4日(
) 玉藻刈る敏馬を過ぎて夏草の 野島の崎に船近づきぬ☆── 柿本人麻呂〔巻三・250〕
        たまもかる みぬめをすぎて なつくさの のしまのさきに ふねちかづきぬ  かきのもとのひとまろ

  5日(
) はしきやし誰が障ふれかも玉桙の 道見忘れて君が来まさぬ☆── 作者未詳〔巻十一・2380〕
        はしきやし たがさふれかも たまほこの みちみわすれて きみがきまさぬ  さくしゃみしょう

  6日(
) 信濃道は今の墾り道刈りばねに 足踏ましむな沓履け我が背☆── 東歌 信濃国歌〔巻十四・3399〕
        しなぬぢは いまのはりみち かりばねに あしふましむな くつはけわがせ  あずまうた しなののくにのうた

  7日(
) 夕星も通ふ天道を何時までか 仰ぎて待たむ月人壮子☆── 柿本人麻呂歌集〔巻十・2010〕
        ゆふつづも かよふあまぢを いつまでか あふぎてまたむ つきひとをとこ  かきのもとのひとまろのかしゅう

  8日(火) 夢の逢ひは苦しかりけりおどろきて 掻き探れども手にも触れねば☆── 大伴家持〔巻四・741〕
        いめのあひは くるしかりけり おどろきて かきさぐれども てにもふれねば  おおとものやかもち

  9日(
) 君に恋ひ甚もすべなみ奈良山の 小松が下に立ち嘆くかも☆── 笠女郎〔巻四・593〕
        きみにこひ いたもすべなみ ならやまの こまつがもとに たちなげくかも  かさのいらつめ

 10日(木) かくのみし恋ひや渡らむたまきはる 命も知らず年は経につつ☆── 柿本人麻呂歌集〔巻十一・2374〕
        かくのみし こひやわたらむ たまきはる いのちもしらず としはへにつつ  かきのもとのひとまろのかしゅう

 11日(
) かくばかり恋ひつつあらずは高山の 岩根し枕きて死なましものを☆── 磐姫皇后〔巻二・86〕
        かくばかり こひつつあらずは たかやまの いはねしまきて しなましものを  いわのひめのおおきさき

 12日(
) 白妙の袖をはつはつ見しからに かかる恋をも吾はするかも☆── 柿本人麻呂歌集〔巻十一・2411〕
        しろたへの そでをはつはつ みしからに かかるこひをも あれはするかも  かきのもとのひとまろのかしゅう

 13日(
) 筑波嶺のさ百合の花の夜床にも 愛しけ妹そ昼も愛しけ☆── 防人 大舎人部千文〔巻二十・4369〕
        つくはねの さゆるのはなの ゆとこにも かなしけいもそ ひるもかなしけ  さきもり おおとねりべのちふみ

 14日(
) 古にありけむ人も吾がごとか 妹に恋ひつつ寝ねがてにけむ☆── 柿本人麻呂〔巻四・497〕
        いにしへに ありけむひとも あがごとか いもにこひつつ いねがてにけむ  かきのもとのひとまろ

 15日(火) いづくにか船泊てすらむ安礼の崎 漕ぎ廻み行きし棚無し小舟☆── 高市黒人〔巻一・58〕
        いづくにか ふなはてすらむ あれのさき こぎたみゆきし たななしをぶね  たけちのくろひと

 16日(
) 吾が情ゆたにたゆたに浮き蓴 辺にも沖にも寄りかつましじ☆── 作者未詳〔巻七・1352〕
        あがこころ ゆたにたゆたに うきぬなは へにもおきにも よりかつましじ  さくしゃみしょう

 17日(木) 青山を横ぎる雲のいちしろく 吾と咲まして人に知らゆな☆── 大伴坂上郎女〔巻四・688〕
        あをやまを よこぎるくもの いちしろく あれとゑまして ひとにしらゆな  さかのうえのいらつめ

 18日(金) 否と言へど強ふる志斐のが強ひ語り このころ聞かずて朕恋ひにけり☆── 持統天皇〔巻三・236〕*
        いなといへど しふるしひのが しひかたり このころきかずて あれこひにけり  じとうてんのう

 19日(
) 否と言へど語れ語れと詔らせこそ 志斐いは奏せ強ひ語りと言ふ☆── 志斐嫗〔巻三・237〕
        いなといへど かたれかたれと のらせこそ しひいはまをせ しひかたりといふ  しいのおみな

 20日(
) 難波人葦火焚く屋の煤してあれど 己が妻こそ常めづらしき☆── 作者未詳〔巻十一・2651〕
        なにはひと あしひたくやの すしてあれど おのがつまこそ とこめづらしき  さくしゃみしょう

 21日(
) 面形の忘れむ時は大野ろに たなびく雲を見つつ偲はむ── 東歌 〔巻十四・3520〕
        おもかたの わすれむしだは おほのろに たなびくくもを みつつしのはむ  あずまうた

 22日(火) 夕さればひぐらし来鳴く生駒山 越えてそ吾が来る妹が目を欲り☆── 秦間満〔巻十五・3589〕
        ゆふされば ひぐらしきなく いこまやま こえてそあがくる いもがめをほり  はだのはしまろ

 23日(
) 夏の夜は道たづたづし船に乗り 川の瀬ごとに棹さし上れ☆── 作者未詳〔巻十八・4062〕
        なつのよは みちたづたづし ふねにのり かはのせごとに さをさしのぼれ  さくしゃみしょう

 24日(木) 鳴る神のしましとよもしさし曇り 雨も降らぬか君を留めむ☆── 柿本人麻呂歌集〔巻十一・2513〕
        なるかみの しましとよもし さしぐもり あめもふらぬか きみをとどめむ  かきのもとのひとまろのかしゅう

 25日(金) 松浦川川の瀬光り鮎釣ると 立たせる妹が裳の裾濡れぬ☆── 作者未詳〔巻五・855〕
        まつらがは かはのせひかり あゆつると たたせるいもが ものすそぬれぬ  さくしゃみしょう

 26日(
) 鴨頭草に服色どり摺らめども 移ろふ色といふが苦しさ☆── 作者未詳〔巻七・1339〕
        つきくさに ころもいろどり すらめども うつろふいろと いふがくるしさ  さくしゃみしょう

 27日(
) 麻苧らを麻笥に多に績まずとも 明日着せさめやいざせ小床に☆── 東歌〔巻十四・3484〕
        あさをらを をけにふすさに うまずとも あすきせさめや いざせをどこに  あずまうた

 28日(
) なでしこが花見るごとに娘子らが 笑まひのにほひ思ほゆるかも☆── 大伴家持〔巻十八・4114〕
        なでしこが はなみるごとに をとめらが ゑまひのにほひ おもほゆるかも  おおとものやかもち

 29日(
) 河の上の斎つ岩群に草生さず 常にもがもな常処女にて☆── 吹黄刀自〔巻一・22〕
        かはのへの ゆついはむらに くさむさず つねにもがもな とこをとめにて  ふきのとじ

 30日(
) 蓮葉はかくこそあるもの意吉麻呂が 家なるものは芋の葉にあらし☆── 長意吉麻呂〔巻十六・3826〕
        はちすばは かくこそあるもの おきまろが いへなるものは うものはにあらし  ながのおきまろ

 31日(
) この世にし楽しくあらば来む世には 虫に鳥にも吾はなりなむ☆── 大伴旅人〔巻三・348〕
        このよにし たのしくあらば こむよには むしにとりにも われはなりなむ  おおとものたびと




〈今日の秀歌メモ〉

8月1日
島木赤彦『万葉集の鑑賞及び其批評(前編)』(岩波版)によれば、
〔引用文中の「前の反歌」とは、「神亀二〔725〕年聖武天皇の吉野行幸に従駕した時の
長歌の反歌」である、本集7月1日掲載歌「み吉野の象山〈きさやま〉の際〈ま〉の木末
〈こぬれ〉にはここだも騒く鳥の声かも」〕
「前の反歌につづいた反歌第2首であつて、静粛な感動と、その感動の現れが前の歌に通
じてゐる所がある。矢張り赤人の傑作であらう。久木は今の世何と呼ぶ木か明瞭に分ら
ぬ。『木ささげ』説もあり『くぬぎ』説もある。『しば鳴く』は『しばしば鳴く』ことで
ある。前の歌と同じく、一読して一首の意明瞭である。第一句より三句まで押して行く勢
が既に異常であつて、一種澄み入つた世界へ誘ひ入れられる心地がする。それを第三句よ
り第五句まで連続した句法で受けて、最後に『千鳥しば鳴く』といふ引き緊(し)まつた
音で結んでゐる。暢達の姿があつて軽い滑りにならない。一首各音の持つ響きが虔(つ
つ)ましく緊まつてゐることが、更らに一首の感じに大きな影響を与へてゐる。その辺を
翫味(がんみ)せんことを望む。猶(なお)この歌、夜半の景情を歌ひながら『久木生ふ
る清き川原』と明瞭に直観的に歌つてゐるのは、月光明かな夜ででもあつたのか。そこに
少しの疑がある。猶、第二句は『夜の更けゆけば』と訓む人が多い。暫く古義〔鹿持雅澄
『萬葉集古義』〕に従ふ」。


8月3日
玉かきる──原文「玉垣入」。「ほのか」にかかる枕詞。原文が「珠蜻」「玉蜻」「玉
限」などのときは「玉かぎる」と訓まれている模様。

稲岡耕二選「万葉集名歌事典─万葉名歌百首」(『万葉集事典』〈学燈社〉所収)中の、
村田正博氏執筆の項によれば、〔以下引用〕
[歌意] 朝日に落ちる細く長い影、その影さながら我が身はやつれた。玉が輝く、かす
かな光のように、ほんのちらっと姿を見せただけで行き過ぎたあの娘(こ)のせいで。
[鑑賞] 古代の男たちは、夕暮れに女のもとへ出かけ、早暁に別れて帰る、そうしては
愛を育て、恋に泣いた。「朝影」とは、彼らにとって、一夜の充足と、それゆえにいっそ
う募る別れのやるせなさとを胸にこめてたどる帰り道の、その足もとから伸びる己(お
の)が影のことで、淋しい視線を注いだものであったろう。細く長い影は、見つめる思い
の投影でもあった。この歌において、「朝影」に「我が身」がなったと歌うのは、本来は
「我が身」とそれに「朝影」が従うかたちの帰り道であるのに、「我が身」が「朝影」に
転化してしまったということであり、実体のない淋しい影だけが歩いている姿の提示であ
る。これは、もちろん、心象の強調であり、誇張の表現であった。が、同時に、実体の消
去は、ある朝の実際の帰り道のあれこれを捨象することであり、表現が一種の抽象化・観
念化をこうむることでもある。「朝影のように我が身はなった」と、「朝影」を痩身の譬
喩にとりなして理解してよいのは、実はこのためであり、したがって、恋にやつれたと歌
う時点は、ある娘に一目逢っての帰り道では必ずしもなくてよいと許容される。この表現
の傾向は、やがて強調の効果を薄め、手慣れた譬喩として通用されることになる(万葉十
一・2619、2664、十二・3138,新撰万葉111、古今十一・528等)。そうした傾きを
もちながらも、この歌は、やつれた原因を「玉かきるほのかに見えて去にし子故に」と歌
い、娘への執着の大きさと万に一つの再会の望みとを暗示することによって、なおも男の
身と心が娘のもとへと吸引され続けているという文脈を形づくっており、ある朝のつぶや
きのなまなましさを保ちえている。その絶妙の均衡の上に、この歌はあるといえよう。


8月4日
伊藤博『萬葉集釈注 二』によれば、
題詞「柿本朝臣人麻呂が羈旅の歌八首」(第1首の第4・5句は未解読で定訓なし)の第
2首、
「柿本人麻呂が瀬戸内を旅した折の詠」、
口語訳「海女たちが玉藻を刈っている敏馬(みぬめ)、故郷の妻が見えないという名の敏
馬を素通りして、はや船は夏草茂るわびしい野島の崎に近づきつつある」。


8月5日
玉桙の──「道」にかかる枕詞。

伊藤博『萬葉集釈注 六』によれば、
口語訳「ああ悔しい。どこのどなたが邪魔立てするのか、通いなれた道さえも見忘れて、
あの方としたことがいっこうにいらっしゃらない」。


8月6日
新編日本古典文学全集『萬葉集 3』によれば、
「信濃道──信濃へ行く道。ここは和銅六年(713)七月に十二年もの歳月をかけて完成
した、美濃・信濃両国を結ぶ岐蘇路(きそじ)をさすのであろう。岐蘇路は今日の岐阜県
中津川市の坂本から長野県下伊那郡阿智(あち)村に越える神坂(みさか)峠(最高部
1595m)がそれかといわれる。この開削工事の功によって当時、美濃守であった笠麻呂
(かさのまろ)(後の満誓沙弥〈まんぜいさみ〉〔沙弥満誓とも。本集2月24日、7月10
日掲載歌の作者〕)は嘉賞された。
墾り道──切り開いたばかりの道。
刈りばね──雑木や篠の類を鎌などで刈り除いた残り株。ハネは、下からすくい上げるよ
うに手早く切り放つ意の下二段活用ハヌ(刎)の名詞形。
足踏ましむな──足踏ムは強く踏んで足を負傷すること。シムは使役の助動詞。馬の足元
にも気を配るように戒めて言う。
沓履け──この沓は馬蹄を痛めないように履かせる馬のわらじ。ハケは、履かせる意の下
二段活用ハクの命令形」、
口語訳「信濃道は 今できた道 切り株で 馬に足を怪我させなさるな 沓をはかせてお
やりなさいあなた」。


8月7日
塚本邦雄撰『清唱千首』(冨山房百科文庫)は言う、
「宵の明星が歩む天の道を、〔彦星を待つて〕いつまで眺めて立ち尽せばよいのかと、織
女〔星〕が歎きつつ夜天を司る月よみの青年に訴へる。『七夕』の題で集められた約百
首、萬葉調の同工異曲で、いささか食傷気味の中に、さすが人麿作の歌群中には、鮮烈な
調べも発見できる。『月人壮子』等の擬人化も新しく楽しい。『夕星(ゆふつづ)』は古
代の訓み方で、その後は『夕星(ゆふづつ)』」。


8月8日
「相聞」のみを部立とする巻四における、家持と大伴坂上大嬢(おおとものさかのうえの
だいじょう)──坂上郎女(さかのうえのいらつめ)の娘で、家持の従妹にして妻──と
の贈答歌の一つ。

新日本古典文学大系『萬葉集一』によれば、
題詞「更に大伴宿祢家持の、坂上大嬢に贈りし歌十五首」の第一首、
「以下の十五首は〔初唐の伝奇小説〕遊仙窟に依拠するところが多い」、
「この歌は〔『遊仙窟』の一節〕『少時坐睡すれば、即ち夢に十娘を見る。驚き覚めて之
(これ)を攬(かきさぐ)れば忽然と手を空しくす』の翻案」〔十娘(じゅうじょう)は
小説中に登場する女性の名〕。

島木赤彦『万葉集の鑑賞及び其批評(前編)』(大正14年11月、岩波書店刊)は言う、
「家持の歌である。『夢の逢ひは苦しかりけり』まではいい。『驚きて』までも真実であ
る。『掻くき探る』『手に触れない』に至つて真実から離れて、歌のための歌になつてゐ
る。掻き探ることもあらうし、?き探つて手に触れないことを嘆く場合もあらうが、それ
は非常に感情の激した亢奮状態の時であらう。左様な場合に、『夢の逢ひは苦しかりけ
』の如き落ち着いた調子に出て居られる筈がない。一首のうち、感情の調子に矛盾があ
る所、真実性と離れ居るを知り得る第一証左である。小生は前に人麿の『天(あめ)の海
に雲の波立ち月の船星の林に榜(こ)ぎ隠る見ゆ』〔巻七・1068〕を以て虚仮(こけ)
おどし歌というた。家持のこの歌も矢張り虚仮おどしなるに於(おい)て同じである。歌
を外形から鑑賞する人々は、斯様(かやう)な虚仮おどしに眩惑することがあるのであつ
て、現に家持のこの歌を家持の代表作として推称し、人麿の『天の海に』の歌を人麿の代
表作として推称してゐる人もあるのである。その点小生等の感服しかねる所である。明治
三十年以後、所謂(いはゆる)新派と称せられた歌に、可なりこの虚仮おどしがある。そ
れを世人が推称して大騒ぎしたこともあつて、今一場の夢となつてゐる。猶(なお)、こ
の歌、巻十二『愛(うつく)しと吾(あ)が思ふ妹(いも)を夢に見て起きて探るに無き
が不楽(さぶ)しさ』あたりから脱化したものかも知れぬ。それならば、原作の方が優つ
てゐる」(下線部、引用元は圏点付き)。
引用文中、巻十二の「愛(うつく)しと」の歌(2914)の第二句は、「思ふ吾妹(わぎ
も)を」と訓まれることが多い。


8月9日
甚も──「(副)(『いたもすべなし』の形で)はなはだしく。[用例]〔掲載
歌〕[解]『すべなみ』は、どうしようもなくて、の意」(例解古語辞典第二版)。


稲岡耕二選「万葉集名歌事典─万葉名歌百首」(『万葉集事典』〈学燈社〉所収)中の、
小野寺静子氏執筆の項によれば、
「[鑑賞] 〔題詞〕「笠女郎、大伴宿祢家持に贈る歌二十四首」(四・587〜610)中
の一首である。……奈良山は平城京の北に連なる佐保(さほ)山、佐紀(さき)山の丘陵
地である。この場合、家持の住む佐保宅を望む地域をさすのであろうか。「小松」の
「小」は接頭語で、若い、小さいということを必ずしも意味しない。結句は〔「立嘆鴨」
でなく〕「立嘆鶴」という写本もあり、古く「立ち嘆きつる」の訓みもあった。上二句で
居ても立ってもいられない、じっとしていられない己れ、下三句で佐保宅を望む奈良山の
松の下の暗がりに立ちすくみ、嘆き溜息をつく己れを対比的に歌って、あきらめざるをえ
ない、うち沈んだ気持を効果的に歌いあげている。この24首に対する家持の歌はわずか2
首、その歌も笠女郎の思いにどれほど報(こた)えるものか疑わしい。集中、ほかに家持
が笠女郎に贈った歌も見えない。笠女郎の一人相撲のような歌を、なぜ家持は執拗に万葉
集に載せたのであろうか。家持と笠女郎の恋は必ずしも快く終わってはいなかったが、家
持には笠女郎の歌を高く評価するところがあって、歌集編纂にあたり、笠女郎からの歌の
ほとんどを収録したのであろう」。

上掲書所収「万葉集全作者事典」の「笠女郎」(塩谷香織氏執筆)の項によれば、
「窪田〔空穂〕『〔萬葉集〕評釈』に『譬喩といふ名目はこの一女性によつて拓かれたも
のであるかの観』『知性の持つ強さと感性の持つ柔らかさを兼ね備へ』『集中でも傑出し
た一人』とある」。


8月10日
たまきはる──「命」にかかる枕詞。

新編日本古典文学全集『萬葉集3』によれば、
口語訳「こうしてばかり 恋し続けることか (たまきはる) 命の成行きも知らずに 年
は過ぎて行く」。


8月11日
新編日本古典文学全集『萬葉集 1』によれば、
巻二の冒頭、題詞「磐姫皇后、天皇(仁徳)を思ひて作らす歌四首」の第2首〔第1首は
本集1月16日掲載歌〕、
「恋ひつつあらずは──恋しく思い続けているくらいならいっそ。このズハは上代語法の
中で最も難しい問題の一つ。三十例ばかりあるうち、その多くはマシ(モノ)ヲのような
仮想表現と呼応し、ズハの上に甚だ望ましくない現在の事実を示し、下にそれよりはまし
だと思う事柄を述べるという形をとる。本居宣長は、これをンヨリハの意と解し、『恋ひ
つつあらずは』は『恋ひつつあらんよりは』であるとした。これに従う。
高山の岩根しまきて──イハネは大きな岩。イハガネに同じ。シは強めの助詞。マクは枕
にする意の四段動詞。特に『高山の』といったのは、前歌の『山尋ね』を受け、皇后が天
皇の足跡を探し求め辺境で行路死人となることを『易い』と考えたものか」。


8月12日
岩波古語辞典によれば、
はつはつ──「[副]《ハツ(初)・ハツカと同根》ちらっと。『白妙の袖を──見しから
に(見タダケデ)かかる恋をもわれはするかも』(万2411)」。


8月13日
常陸国出身の防人の歌。

水島義治『校註万葉集東歌・防人歌』新増補改訂版によれば(以下、摘記引用)、
さ百合の花の──百合の花のように。サは接頭語。美称。ユルはユリの訛り。山
百合の花。形の上からは同音利用の序詞(サユルのユと、ユトコのユ)であるが
「愛しけ妹」にかかると見るべきであろう。「語の続けざまから見れば序とすべ
きであるが、同音の利用のみでなく、妻の姿態の形容を兼ねてゐるのである」
(佐佐木信綱『評釈萬葉集』)。
夜床にも愛しけ妹ぞ──夜の寝床でもいとしい妻は。ユトコ・カナシケはヨトコ
・カナシキの訛り。
昼も愛しけ──昼間でもいとしい(こんなにいとしい妹を私は残して行かなけれ
ばならないのか)。


8月14日
第五句(原文「宿不勝家牟」)の訓み、他に「寝ねかてずけむ」「寝ねがてずけ
む」あり。

島木赤彦『万葉集の鑑賞及び其批評(前編)』(岩波版)によれば、
「人麿恋歌四首中の一首である。『吾がごとか』は『吾が如くか』の意であり、
『寝ねがてにけむ』は『寝ねがたくせりけむ』の意である。自分の恋の苦悩に堪
へずして、それを推して人類一般の苦悩に及び、この苦しみ古来皆然りとして、
自他を憐れみつつ猶(なお)自ら慰めんとする心であらう。第一句より終りまで
打ち続いた句法の調子が高く揚り、宛(さなが)ら大波のうねりつつ岸に押し寄
せんとするが如き勢をもつてゐる所、矢張り人麿ならでは至り得ない所であつて、
傑作中の尤(ゆう)とするに足りる。特に、第三句『ごとか』の『か』が遠く第
五句の『けむ』に行つて結ばれてゐる姿は、獅子の首をあげてその眼の遠きに及
んでゐるに比していい。この句法、前〔述した同一作者〕の『青駒が足掻きを早
み雲居にぞ妹があたりを過ぎて来にける』〔巻二・136〕、『御食(みけ)向ふ南
淵山の巖には零(ふ)れるはだれか消え残りたる』〔巻九・1709、柿本人麻呂歌
集、本集4月26日掲載〕等に通じてゐる。これらの歌は写生でないと思ふ人あらん
も、小生は矢張り写生歌の究極に入つてゐるものと思うてゐる。『吾がごとか妹
に恋ひつつ寝ねがてにけむ』といふのは、苦悩に対する自己の写生を押し詰めて
到り得たものである。観念歌でもない。概念歌でもない。空想歌でもない。矢張
り写生歌である。実は、小生の写生歌に対する理想は、写生が形似の接近から更
に深入りして、遂に一点単純な至境に澄み入る所にあるのであつて、これらの歌
が、その理想の一端を現し得てゐるものであるといふ感がするのである。一点の
単純所に澄み入るといふことは、全心の集中より来るものであり、全心の集中は
切実なる実感より来り、切実なる実感は具体的事象との接触より来る。そこが写
生の道の生れる所である。生れる所は夫(そ)れであるけれども、到達所は遂に
一点単純所への澄み入りである。さういふ点より見れば、前の『東(ひむがし)
の野に陽炎(かぎろひ)の……』〔巻一・48、本集10月1日掲載予定〕の如きは、
事象の展舒(てんじょ)が多過ぎて、やや外面に羅列するの傾をもち、騒がしい
といふほどならねど、猶、今少し深く統一出来ぬかといふ介意が生ずるのである。
『古にありけむ人も』の歌と比較して見ると分る」。


8月15日
新編日本古典文学全集『萬葉集 1』によれば、
題詞「(大宝)二年(702)壬寅、太上天皇(持統)、参河(三河)に幸(いでま)せる時の
歌」の一首。
「いづくにか船泊てすらむ──ラムは現在推量。今頃どこら辺りで停泊していることであろ
うか、と思い遣っていう。
安礼の崎──所在未詳
漕ぎ廻み行きし──タミは、巡る、回る、の意の上二段動詞。タは接頭語。ミは単独では
ミ・ミ・ミル・ミル・ミレ・ミ(ヨ)と上一段に活用した。
棚なし小舟──タナもない貧弱な船。タナは船の舷側の横板。北陸や山陰の海岸、あ
るいは田沢湖(秋田県)や諏訪湖(長野県)などの湖沼に最近まで見られた刳舟(くりぶ
ね)の類をいうか」。

塚本邦雄撰『清唱千首』(冨山房百科文庫)は言う、
「遠望を伝へてふと言葉を呑むこの二句切れ。『安礼の崎』以下は、口疾(くちど)に、あ
たかも船影が水上を滑るやうな速度で歌ひ終る。なかなかの技巧であり、寂寥(せきりょ
う)感はこの固有名詞の活用によつて際立ち、結句の文字によつてさらに浮び上る。もつ
と雄渾(ゆうこん)な調べは巻一の中にも乏しくはないが、この儚(はかな)く、悲しい一首
は忘れがたい。稀なる叙景歌である」。


8月16日
万葉集全20巻のうち巻七は巻十〜十四とともに「作者不明の巻」と呼ばれる。雑歌・譬
喩歌・挽歌と三つの部立を持つ。本歌は譬喩歌中にあって題詞「草に寄せる十七首」の
末尾に置かれている。

たゆたに──「[副]《タは接頭語。ユタは、ゆるやかで定まらない意》気持のゆれて定まら
ないさま。ゆらゆら。『ゆたに』とも」(岩波古語辞典)。
浮き蓴──「水面に浮いている「ぬなわ」。蓴菜(ジュンサイ)」(新潮国語辞典)。
かつましじ──「かつ」は全訳読解古語辞典によれば、上代語で「…できる。…にたえる」
の意の補助動詞、多く、動詞の連用形に付いて、下に打消の語を伴って使われる。「かつ
ましじ」は、そのひとつの助動詞「まじ」の古い形が伴ったもの。


8月17日
いちしろく──原文「灼然」。
 例解古語辞典第二版によれば、
 「いちしろし【著し】(形ク)《「いちしるし」の古形》
 「いちしるし」に同じ。[用例]「青山を横ぎる雲の
 (=ココマデ序)──・く我と笑(ゑ)まして人に知らゆな
 (=知ラレルナ)」(万葉巻四・688・坂上郎女)

吾と咲まして──原文「吾共咲為而」。
 新日本古典文学大系『萬葉集 一』によれば、
 「助詞『と』の表記『共』の字によって、この笑顔が
 『一人笑み』ではないことを示す」。


8月18日
一般に持統天皇の作と見られている歌。

西郷信綱『萬葉私記』(未来社刊)によれば、
題詞「天皇、志斐嫗(しひのおみな)に賜ふ御歌一首」、
「この『天皇』が持統であるかどうか明証はないのだが、作者にあまりこだわる
必要もなかろう。
 志斐嫗は志斐氏の老女。志斐氏は中臣志斐連と阿部志斐連の二流がある。後者
については阿部名代なるものがヤナギの花を天皇に献じたのにコブシの花だと強
いて奏したので志斐の氏をもらったという伝説(新撰姓氏録)があるから、志斐
は強語(しひがたり)のシヒと解されていたのが分る。もう沢山だというのに、
無理に聞かせる志斐嫗のしい語りも、このごろ聞かないので私は恋しくなった。
といったのに対し、〔以下明日へ〕もういやだといっても、語れ語れとおっしゃ
るからこそ志斐は申しあげたのですのに、しい語りだとおっしゃるなんて。と答
えたもの。


8月19日
〔西郷信綱『萬葉私記』からの引用、承前〕

もういやだといっても、語れ語れとおっしゃるからこそ志斐は申しあげたのです
のに、しい語りだとおっしゃるなんて。と答えたもの。
 いうまでもなく俳諧的即興であり、うまく機智をいいかわした歌にすぎぬが、
「親密の情がこれだけ自由自在に現われるということは、後代の吾等には寧ろ異
といわねばならぬ程である」(秀歌〔斎藤茂吉『萬葉秀歌』〕)。「志斐のが」
といういい方に親しみがこもっている。また「われ恋ひにけり」が、語りを聞き
たいだけでなく語り手への懐かしさを含んでいることも指摘できる。しかしこの
歌に現われている「自由自在」さは、当時の日常会話と詩的表現との落差、へだ
たりがまだ僅少であり、口頭言語のレベルが詩によほど近かったのによると思う。
アイヌ民族は改まったとき詩で挨拶を交すといわれるが、現代でいえば知識階級
より農民のばあいの方が両者のへだたりはずっと少いはずで、ここには社会発展
における言語史と文学史の微妙な関係がかくされている。
 カタリはハナシとは違い曲節ある叙事詩的吟誦を意味した。従って志斐嫗なる
老女も、すでに早く古義〔鹿持雅澄『萬葉集古義』〕に注してあるように、宮廷
つき語部(かたりべ)の一員であったに相違ない。むろん稗田阿礼(ひえだのあ
れ)ごとき重い祭儀的役を受けもつものではなく、貴人のいわば教育者として古
い伝承を語りきかせたのであろう。巫女の分化課程が始まっていたのだ。シヒガ
タリと戯れによぶことができたのも、そのせいであるまいかと推測される。とに
かく、こうしたカタリの古風が宮廷生活のなかにまだ明瞭に生きていたという事
実は、一方における大陸文化の芳烈な滲透とともに、万葉集の歌の背景を考察す
る上に到底無視できぬことがらでなければならぬ。言語の問題として見るとき、
とりわけそれはたんなる背景以上の深甚な意味をもつ。初期万葉の歌の表現が殆
んどつねに一定の詩的高さを保っており、あまりムラがないのは、言語がまだ未
分化でこうした自然的造形力をもっていたからである」(下線部、引用元傍点付
き)。
 
前歌(236)の「志斐のが」──「『の』は接尾語、『が』は格助詞、ともに親
愛の情を表す」、
本歌の「志斐い」──「『い』は主格の下に付く強意の副助詞」、
結句の訓み──「敬語の使用を省略」(新日本古典文学大系『萬葉集 一』)。


8月20日
稲岡耕二選「万葉集名歌事典─万葉名歌百首」(『万葉集事典』〈学燈社〉所
収)中の、高野正美氏執筆の項によれば、〔以下引用〕
[歌意] 難波人が葦火を焚く家のように、煤(すす)けているけれど、我が妻
こそはいつ見てもかわいい。
[鑑賞] 作者は不明だが、都周辺の庶人の歌であろう。初二句は序詞。葦火を
焚く煙が立ちこめる家の様子は、第三句の煤けている状態を喚起する具象的な景
となっている。難波の葦は当時広く知れ渡っていたらしく、「難波の国は葦垣の
古りにし郷」(六・928)とか、「難波堀江の葦辺には」(十・2135)、「葦が
散る難波」(二十・4331)などと歌われている。「すしてあれど」は「己が妻」
を形容する語で、添い馴染(なじ)んだ古女房といったところか。煤けている
れども、と逆接になっているのは、そのような女はかわいくないと思われていた
ことを示している。これを前提として、ここでは煤けてはいるが我が妻はかわい
い、と言っておどけている。この否定的条件を肯定的に転じて戯れているところ
にこの歌のおもしろさがある。この歌には何ら説明はないが、歌垣のような集団
の場で歌われたものであろう。世間の通念とは裏腹に、我が妻はいつでもかわい
いと言っておどけ、人々の笑いを誘発しているが、この発想は集団歌の型であっ
たらしく、次のようにも歌われている。「住吉(すみのえ)の小集楽(をづめ)
に出(い)でて現(うつつ)にも己妻(おのづま)すらを鏡と見つも」(十六・
3808)。この歌は「郷里(さと)の男女」が集まって「野遊(のあそび)」をし
た時のもので、「己妻」は「鏡」(かけがえのない大切なもの)ではないのだが、
その「己妻すら」と言って、鏡に譬えて賛嘆している。煤けてはいるが我が妻は
かわいいというのも、我が妻でさえも鏡のようにかけがえないというのも、周囲
はウソだと知っているから、たちまち笑いが沸きあがる。これらが表現構造のう
えで共通するのは、歌垣(野遊)のような集団の場での戯歌の発想に倣って歌わ
れているからである。このように、作者未詳歌からは、しばしば屈託のない庶人
の明るい笑いが聞こえてくる。〔下線部、引用元傍点付き〕


8月22日
遣新羅使のひとりの歌。詳しくは5月13日のメモを。

塚本邦雄撰『清唱千首』(冨山房百科文庫)は言う、
「恋人に逢ひたい一心の、弾(はず)む息、アレグロの足取り、耳には生駒の蝉
時雨。それも黄昏どき、頂上は標高六四二メートルのこの山、ひいやりと涼しか
らう。大和へ行くのか河内へ来るのか。ひぐらしは陰暦六月末から九月半ばまで、
朝の一時(ひととき)と夕の数刻鳴きしきる。結句の『妹が目を欲り』は慣用句
だが、切なくきらめく男女の目が顕(た)つやうだ」。

妹が目を欲り──「妻に逢いたくて」(新日本古典文学大系『萬葉集 三』)の意。


8月23日
たづたづし──「[形シク]『たどたどし』の古形」、
 たどたどし──「[形シク]《タヅタヅシの母音交替形。タドリ(辿)と同根か。
夕闇の中を手さぐりで行くような気持をいう》?いかにも不案内である。進も
うにも状況がよく分らない」(岩波古語辞典)。

伊藤博『萬葉集釈注 九』によれば、
題詞に「太上皇(おほきすめらみこと)、難波(なには)の宮に御在(いま)す
時の歌七首」とある、左大臣橘諸兄(たちばなのもろえ)の上皇への贈歌に始ま
るひとむれの歌の末尾に置かれている歌。「太上皇」は元正(げんしょう)上皇、
「難波の宮」は聖武天皇の世の天平十六(744)年、一時皇都と定められた。そ
の年の夏の詠。
口語訳「夏の夜は、川辺の道は心もとない。引き船をやめて船に乗り、流れの早
い浅瀬に来るたびに棹をさして泝(さかのぼ)るがよい」。
この前の、「堀江を通って、水脈(みお)をあとに引きながら御船の棹(さお)
を操っている下々の者どもは、川の瀬によく注意してお仕え申せよ」という意の
歌(4061)と本歌に対する左注に、
「右の件(くだり)の歌は、御船(おほみふね)綱手(つなて)をもちて江(か
は)を泝り、遊宴する日に作る。伝誦(でんしょう)する人は田辺史福麻呂(た
なべのふびとさきまろ)ぞ」
とあり。
「この二首には作者の署名がない。……〔天平二十年三月、左大臣橘家の使者と
して越中守大伴家持のもとに遣わされた時に家持主催の送別の宴で披露した折
の〕誦詠者福麻呂自身の作った歌であるがゆえに、署名がないのであろう。……
これまでの歌の作者はすべて高貴な人びとばかりである。よって、身分の低い我
が身に関する歌の披露は最後に廻したものと思われる」。


8月24日
新日本古典文学大系『萬葉集 一』によれば、
口語訳「雷が少しだけ空を轟かし、かき曇り、雨でも降らないかなあ。それを口
実に、あなたを引き留めよう」、
「第四句原文『雨零耶』は、沢瀉〔久孝〕説によって『あめもふらぬか』と訓む
ことが確定した(『萬葉の作品と時代』)。故に、結句〔原文「君将留」〕の訓
は必ず『きみをとどめむ』であるべく、『きみがとまらむ』ではあり得ない。
『ぬか』『ぬかも』は、その願望が実現した時、願望実現後の自分の行動・行為
を、『(私は)…む』という意志の形式で、以下に叙するのが定石である(佐竹
〔昭広〕「上代の文法」『日本文法講座』三)。即ち、歌としては、理由付命令
記号の型となる」。


8月25日
伊藤博『萬葉集釈注 三』によれば、
口語訳「松浦川の川瀬はきらめき、鮎を釣ろうと立っておられる
    あなたの裳の裾が美しく濡れています。
の意で、輝くばかりの女性美を述べて、男の関心を覗かせた歌である。女性の裳
の裾が濡れていることは、万葉時代の男性に対し官能的な美感をそそったらしく、
裳の裾の濡れることを通して女性への憧れを示した歌が集中に多い(一・40、七
・1274など参照)」、
本歌は題詞「蓬客(ほうかく)のさらに贈る歌三首」の第一首で、この三首は、
筑紫在任時の大伴旅人と山上憶良の作を中心に編まれた巻五の、漢文「松浦川に
遊ぶ序」を伴う853から863までの「松浦歌群」の一部。「松浦川は佐賀県東松浦
郡の玉島川のこと」、この「歌群」の「内容は玉島の潭遊覧を下地に置く虚構で、
『遊仙窟』や『文選(もんぜん)』巻十九の情賦群に学ぶところが多い」。
漢文序文中に「魚(うを)を釣る女子(をみなご)」という語句がある。これは
「神功(じんぐう)皇后が四月上旬ここで鮎を釣ったという神功摂政前紀の故事
を踏まえる。この地には初夏の頃になると女たちが鮎を釣る習いがあるが、その
起源は神功皇后の故事にあると記している」。
「860までは、玉島川を訪れた一人の『蓬客』(さすらいの旅人)と玉島の潭に
おける神仙の娘子たちとの対話や贈答ということになっており、それゆえに署名
がない。一つ一つに、実際は誰の作などと書いてしまっては、夢幻を狙ったせっ
かくの趣向が台なしになってしまうからであろう。……できあがったものとして
は、その実作者は、あくまで〔大伴〕旅人と見るべきであろう」。


8月26日
伊藤博『萬葉集釈注 四』によれば、
「一首は、
  露草の花で着物を色取って染めたいと思うけれど、
  褪(あ)せやすい色だと人が言うのを聞くのがつらい。
の意。女の心。ある男が好きになった。そしてその男から求婚を受けた。しかし、
世間の人びとは移り気な上調子の男だと噂している。どうしようか苦しむ心であ
る。
『衣色どり摺る』に求婚を受け入れる意を、『うつろふ色』にさめやすく移り気
な心を譬えている。月草の花染めが褪せやすい色であったことは、四・583、十
二・3058〜9などにもうたわれている」。


8月27日
水島義治『校註万葉集東歌・防人歌』新増補改訂版によれば(以下、摘記引用)、
麻苧ら──麻の苧(を)。麻又は苧(カラムシ)の茎の繊維を材料とする糸。麻
糸。「ら」は接尾語。
麻笥──つむいだ麻糸を入れる器。薄板を曲げて作る。
ふすさに──たくさん、多く。
績まずとも──細く裂いて糸にしても。「ず」は本来清音「す」であるべきとこ
ろであるが、「直前の鼻音にひかれて濁音化したもの」(〔日本古典文学〕大系
本)。「す」は親愛・尊敬の意の助動詞「す」の終止形。諸注多くこれを打消の
「ず」とし「そんなに」績まなくてもとするが、「宇知比佐受宮弊〔うちひさず
みやへ〕」(五・886)の例もあり、打消の「ず」とは見ない。
明日着せさめや──明日それを着なさるのだろうか。そうではないでしょう。
「着」(「着る」の連用形)+「せ」(サ変の未然形)+「さ」(尊敬の助動詞
「す」の未然形)+「め」(推量の助動詞「む」の已然形)+「や」(反語・終助
詞)。
いざせ小床に──さあいらっしゃいよ。臥しど(寝床)に。

巻十四の3438から末尾3577に至る「以前(さき)の歌詞は、いまだ国土山川の
名を勘(かむが)へ知ることを得ず」(3577左注)の、いわゆる東歌未勘国に入
る歌。


8月28日
新編日本古典文学全集『萬葉集 4』によれば、
「娘子ら──妻の〔大伴〕坂上大嬢(さかのうえのおおいらつめ)をさす。この
ラは語調を整えるために添えたもので、複数を表さない。
にほひ──ここは顔色の美しいことをいう」。

新日本古典文学大系『萬葉集 四』によれば、
「花の美しさに恋すべき女性の笑顔を重ねてみること、『花笑み』(1257、
4116)とも、『花のごと笑みて』(1738、1807)とも表現された。ただしこの
歌の『笑まひのにほひ』は他に例がない」。


8月29日
[作者名表記について、古写本によっては「黄」を〈くさかんむりに「欠」〉の
文字とするものもあり、伊藤博氏はこちらを採っていらっしゃいます。しかし、
Web上でこの文字をテキスト表示することはできませんので、不本意なことなが
ら、■をもって示します]

伊藤博『萬葉集釈注 一』によれば、
題詞「十市皇女(とをちのひめみこ)、伊勢神宮(いせのかむみや)に参赴(ま
ゐで)ます時に、波多(はた)の横山(よこやま)の巌(いはほ)を見て、吹■
刀自(ふふきのとじ)が作る歌」
左注「吹■刀自はいまだ詳(つばひ)らかにあらず。ただし、紀には『天皇の四
年乙亥(きのとゐ)の春の二月、乙亥の朔(つきたち)の丁亥(ひのとゐ)(十
三日)に、十市皇女・阿閉皇女(あへのひめみこ)、伊勢神宮に参赴(まゐで)
ます』といふ」。
「上三句は眼前の景を『常に』の譬喩に用いたもので、
  川中の神聖な〔「斎つ」〕岩々に草も生えないように、
  いつも不変であることが
  できたらなあ〔「もが」+「も」+「な」〕。
  そうしたら常処女でいられように。
[(補注)常処女 永遠に若く清純なおとめ。「常」(とこ)は集中永久不変の
意に用いられるが、本来「高」(たか)と同根で、まさにその盛りの状態を意味
する形状言という(川端善明『活用の研究』I)。……]
というのが、全体の意。張りのあるすがすがしい歌である。……
 この『常にもがもな常処女にて』の願望の主は、作者と歌詞とを結びつければ
吹■刀自ということになる。だが、上に、『十市皇女、伊勢神宮に参赴ます時
に』とことさらことわっているのを思えば、これは、十市皇女(時に二十八歳程
度)その人になりかわっての願いであったと見るべきであろう。左注(天武紀)
にいよれば、一行の中には阿閉皇女(のちの元明天皇)もいたという。二人の皇
女がおれば、少なからぬ女性が従っていたことであろう。広くいえば、刀自を含
めた旅行く一行の心境を代弁したということになろう。が、一行の支柱は十市皇
女であったと見られ、直接には十市皇女の立場でうたったと考えるべきであろう。
……
 左注にいうように、十市皇女たちが伊勢神宮に参ったのは天武四年(675)二
 月であった。二月といえば、同じ天武天皇の皇女大伯(おおく)が伊勢の斎宮
 になってから五か月足らずである。壬申の乱の勝利の神託を下した伊勢神宮へ
のより鄭重な神祭りかたがた、大伯皇女(十五歳)の話し相手に、天武天皇は二
人の皇女を、追い継いで伊勢に送ったのであろう。壬申の乱の敵将大友皇子の妻
である十市皇女の、天武皇女としての再生をはかる気持も、また、持統との一粒
種草壁皇子(十四歳)の妃にと思う阿閉皇女の格付けを図る気持も、天武天皇に
はあったのかもしれない。一行は生気をたたえて伊勢の神宮(かむみや)に参り
着かねばならぬのであった。一首はそういう背景に立っての、すがすがしい呪歌
(じゅか)であった。
 ……
 波多の横山のある伊勢の一志(いっし〔「いちし」とも〕)から神宮は近い。
それから数日を経ずして、三人の皇女の斎宮での親しい会話があったことであろ
う。その内容は知る由もない。しかし、『常処女にて』の支柱であった十市皇女
が、この三年後に急死することは、神に仕える身でありながら、彼女自身も、ま
た、ほかの誰もが予知せぬことであった。……〔本集6月14日のメモ参照〕
 天武十年二月、草壁皇子が皇太子になった。二十歳。と同時に、阿閉皇女(二
十一歳)は皇太子妃に迎えられたらしい。この歌の時から六年後である。天武十
二年には、阿閉は軽皇子(かるのみこ)(のちの文武天皇)を生んでいる。一方、
天武十五年九月、大伯皇女の同母弟大津皇子(二十四歳)と阿閉の夫草壁皇子
(二十五歳)とのあいだに皇位継承の争いが生じ、大津は刑死の悲運に見舞われ
た。この弟の死を悼む大伯(二十六歳)の絶唱が巻二に残る(163〜6〔本集4月
17日のメモ参照〕)。大伯はその後ひっそり生きて、大宝元年(701)十二月、
四十一歳で世を終わった。阿閉皇女は、大津皇子事件から三年後の持統三年(
689)四月、夫草壁を失ったものの、のちに即位して元明天皇となり(慶雲四年=
707)、元正朝の養老五年(721)十二月、当時としては天寿を全うして生涯を閉
じた。六十一歳。
 こういう先の運命をあずかり知らぬ、三皇女のうら若き日の歌が、常処女の一
首であった。伊勢懇談の幾日かが、皇女たちにとって最も幸福な一瞬であったか
もしれない」。


8月30日
あらし──「《「あるらし」の変化形。動ラ変「あり」の連体形+推量の助動詞
「らし」》あるらしい。きっとあるだろう」(全訳読解古語辞典)。

新日本古典文学大系『萬葉集 四』によれば、
題詞「荷葉(はちすのは)を詠みし歌」、
「作者長忌寸(いみき)意吉麻呂が、園池の蓮の葉の立派なのを見て、これに比
べたら我が家の蓮など芋の葉に過ぎないと卑下しておどけた歌。あるいはこの蓮
の葉は、宴席の食器として用いられたものかも知れない。『饌食(せんし)これ
を盛るに皆荷葉を用ゐ』(3837左注)とある。『芋』はサトイモ。『魚をイヲと
いふが如くイダク(抱)とウダクと通ずる如く、古代はイモをウモと言つたので
あらう』(鴻巣盛広『萬葉集全釈』)。倭名抄〔倭名類聚鈔〕に『芋〈以倍乃伊
毛(いへのいも)〉は、葉は荷(はす)に似て、その根はこれを食ふべし』とあ
る。サトイモの葉は、形は蓮葉に似て、それよりも小さい。題詞の『荷』は『扶
渠(ハス)』の葉、『蓮』はその実(説文解字)であるが、同意に用いられる」。


8月31日
新編日本古典文学全集『萬葉集 1』によれば、
「楽しくあらば──万葉集でタノシの語を用いた歌の大多数が宴席での詠だとい
われる。この歌及び次の349〔生けるもの遂にも死ぬるものにあればこの世にあ
る間(ま)は楽しくをあらな〈「を」は強調の意を表わす間投助詞──岩波古語
辞典〉〕の楽シはその上に、酒を飲んで、の語を補うと分りやすい。
虫に鳥にも──虫ニモ鳥ニモというべきところだが、このようにAニモBニモとい
えば字余りになる場合、上のモが落ちることが普通」。

新日本古典文学大系『萬葉集 一』では、仏教経典の「酒」「虫」「鳥」に関する
語が引用されている。
「酒は不善諸悪の根本たり」(涅槃経二)。「持する所の五戒の中、酒戒を最も
重しと為す」(法苑珠林八十二)。
「四生」のうち、虫は「湿生」、鳥は「卵生」で、「皆先世の悪業の招く所に由
つて、是の如くの報を受くるなり」(大宝積経五十七)。





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