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《新版 万葉秀歌365》9月

9月1日(金) わたつみの豊旗雲に入日さし 今夜の月夜あきらけくこそ── 天智天皇〔巻一・15〕
        わたつみの とよはたぐもに いりひさし こよひのつくよ あきらけくこそ  てんちてんのう

  2日(
) 明け闇の朝霧隠り鳴きて行く 雁は吾が恋妹に告げこそ── 作者未詳〔巻十・2129〕
        あけぐれの あさぎりがくり なきてゆく かりはあがこひ いもにつげこそ  さくしゃみしょう

  3日(
) 天地の神に幣帛置き斎ひつつ いませわが背な吾をし思はば☆── 防人の妻〔巻二十・4426〕
        あめつしの かみにぬさおき いはひつつ いませわがせな あれをしもはば  さきもりのつま

  4日(
) 敷妙の袖交へし君玉垂の 越智野に過ぎぬまたも逢はめやも☆── 柿本人麻呂〔巻二・195〕
        しきたへの そでかへしきみ たまだれの をちのにすぎぬ またもあはめやも  かきのもとのひとまろ

  5日(
) 隠りのみ居ればいぶせみ慰むと 出で立ち聞けば来鳴くひぐらし☆── 大伴家持〔巻八・1479〕
        こもりのみ をればいぶせみ なぐさむと いでたちきけば きなくひぐらし  おおとものやかもち

  6日(
) 天離る鄙にも月は照れれども 妹そ遠くは別れ来にける── 作者未詳〔巻十五・3698〕
        あまざかる ひなにもつきは てれれども いもそとほくは わかれきにける  さくしゃみしょう

  7日(
) 秋の田の穂の上に霧らふ朝霞 いつへの方に我が恋やまむ☆── 磐姫皇后〔巻二・88〕
        あきのたの ほのへにきらふ あさがすみ いつへのかたに あがこひやまむ  いわのひめのおおきさき

  8日(金) 八百日行く浜の沙も吾が恋に あに勝らじか沖つ島守☆── 笠女郎〔巻四・596〕
        やほかゆく はまのまなごも あがこひに あにまさらじか おきつしまもり  かさのいらつめ

  9日(
) 人の寝る甘眠は寝ずて愛しきやし 君が目すらを欲りし嘆かふ☆── 柿本人麻呂歌集〔巻十一・2369〕
        ひとのぬる うまいはねずて はしきやし きみがめすらを ほりしなげかふ  かきのもとのひとまろのかしゅう

 10日(
) 彼の児ろと寝ずやなりなむはだ薄 宇良野の山に月片寄るも☆── 東歌〔巻十四・3565〕
        かのころと ねずやなりなむ はだすすき うらののやまに つくかたよるも  あずまうた

 11日(
) 君待つと吾が恋ひをればわがやどの 簾動かし秋の風吹く☆── 額田王〔巻四・488〕*
        きみまつと あがこひをれば わがやどの すだれうごかし あきのかぜふく  ぬかたのおおきみ

 12日(
) 風をだに恋ふるは羨し風をだに 来むとし待たば何か嘆かむ☆── 鏡王女〔巻四・489〕
        かぜをだに こふるはともし かぜをだに こむとしまたば なにかなげかむ  かがみのおおきみ

 13日(
) 秋萩に置きたる露の風吹きて 落つる涙は留めかねつも☆── 山口女王〔巻八・1617〕
        あきはぎに おきたるつゆの かぜふきて おつるなみたは とどめかねつも  やまぐちのおおきみ

 14日(
) 明日香川川淀去らず立つ霧の 思ひ過ぐべき恋にあらなくに☆── 山部赤人〔巻三・325〕
        あすかがは かはよどさらず たつきりの おもひすぐべき こひにあらなくに  やまべのあかひと

 15日(金) 小竹の葉はみ山もさやに騒けども 吾は妹思ふ別れ来ぬれば── 柿本人麻呂〔巻二・133〕
        ささのはは みやまもさやに さわけども われはいもおもふ わかれきぬれば  かきのもとのひとまろ

 16日(
) 臥いまろび恋ひは死ぬともいちしろく 色には出でじ朝顔が花☆── 作者未詳〔巻十・2274〕
        こいまろび こひはしぬとも いちしろく いろにはいでじ あさがほがはな  さくしゃみしょう

 17日(
) 今年行く新島守が麻衣 肩のまよひは誰か取り見む☆── 古歌集〔巻七・1265〕
        ことしゆく にひさきもりが あさごろも かたのまよひは たれかとりみむ  こかしゅう

 18日(
) 父母が頭かき撫で幸くあれて 言ひし言葉ぜ忘れかねつる☆── 防人 丈部稲麻呂〔巻二十・4346〕
        ちちははが かしらかきなで さくあれて いひしけとばぜ わすれかねつる  さきもり はせつかべのいなまろ

 19日(
) 妹と来し敏馬の崎を帰るさに 独して見れば涙ぐましも☆── 大伴旅人〔巻三・449〕
        いもとこし みぬめのさきを かへるさに ひとりしてみれば なみたぐましも  おおとものたびと

 20日(
) 我が宿の萩の末長し秋風の 吹きなむ時に咲かむと思ひて☆── 作者未詳〔巻十・2109〕
        わがやどの はぎのうれながし あきかぜの ふきなむときに さかむとおもひて  さくしゃみしょう

 21日(
) 夕月夜心もしのに白露の 置くこの庭にこほろぎ鳴くも☆── 湯原王 〔巻八・1552〕
        ゆふづくよ こころもしのに しらつゆの おくこのにはに こほろぎなくも  ゆはらのおおきみ

 22日(金) 暗の夜の行く先知らず行くわれを 何時来まさむと問ひし子らはも☆── 防人〔巻二十・4436〕
        やみのよの ゆくさきしらず ゆくわれを いつきまさむと とひしこらはも  さきもり

 23日(
) 庭に立つ麻手刈り干し布さらす 東女を忘れたまふな☆── 常陸娘子〔巻四・521〕
        にはにたつ あさでかりほし ぬのさらす あづまをみなを わすれたまふな  ひたちのおとめ

 24日(
) 筑波嶺の嶺ろに霞居過ぎかてに 息づく君を率寝て遣らさね☆── 東歌〔巻十四・3388〕
        つくはねの ねろにかすみゐ すぎかてに いきづくきみを ゐねてやらさね  あずまうた

 25日(月) 夕されば小倉の山に鳴く鹿は 今夜は鳴かず寝ねにけらしも── 舒明天皇〔巻八・1511〕
        ゆふされば をぐらのやまに なくしかは こよひはなかず いねにけらしも  じょめいてんのう

 26日(
) 秋の野のみ草刈り葺き宿れりし 宇治のみやこの仮廬し思ほゆ☆── 額田王〔巻一・7〕
        あきののの みくさかりふき やどれりし うぢのみやこの かりいほしおもほゆ  ぬかたのおおきみ

 27日(
) 留めえぬ命にしあればしきたへの 家ゆは出でて雲隠りにき☆── 大伴坂上郎女〔巻三・461〕
        とどめえぬ いのちにしあれば しきたへの いへゆはいでて くもがくりにき  おおとものさかのうえのいらつめ

 28日(
) 世の中は空しきものと知る時し いよよますます悲しかりけり☆── 大伴旅人〔巻五・793〕
        よのなかは むなしきものと しるときし いよよますます かなしかりけり  おおとものたびと

 29日(
) 秋風に大和へ越ゆる雁が音は いや遠ざかる雲隠りつつ── 作者未詳〔巻十・2128〕
        あきかぜに やまとへこゆる かりがねは いやとほざかる くもがくりつつ  さくしゃみしょう

 30日(
) 隼人の薩摩の瀬戸を雲居なす 遠くもわれは今日見つるかも☆── 長田王〔巻三・248〕
        はやひとの さつまのせとを くもゐなす とほくもわれは けふみつるかも  ながたのおおきみ






〈今日の秀歌メモ〉

9月3日
水島義治『校註万葉集東歌・防人歌』新増補改訂版によれば(以下、摘記引用)、
天地の──アメツシはアメツチの訛り。
幣帛置き──幣帛を捧げて。幣帛は神を祭る時捧げる物。主として木綿(ゆふ)
や麻の布を用いたが後には絹・紙を用い、多くは串にさした。
斎ひつついませ──身を慎み守りながらいらっしゃいませ。
吾をし思はば──私をお思い下さるならば。


9月4日
左注訳「右は、或る本に『河島皇子〔川島皇子とも〕を越智野に葬った時に、泊
瀬部皇女(はつせべのひめみこ)に奉った歌である』とある。日本書紀には『朱
鳥五年(持統天皇五年=691)秋九月九日に浄大参〔位階制のひとつ〕皇子川島が
亡くなった』とある」(新日本古典文学大系『萬葉集 一』)。

島木赤彦『万葉集の鑑賞及び其批評』(岩波版)によれば、
〔今日の校本・注釈諸書で一般的な表記「越智野(をちの)」は「小市野(をち
ぬ)」となっている〕
「これは天智帝の皇子河島皇子殯宮(あらきのみや)の時、人麿が皇子の妃泊瀬
部皇女(天武帝の皇女)に献つた哀悼長歌の反歌である。人麿三十歳以前の作で
あるらしい。『敷妙の』は袖の枕詞、『袖易へし君』は袖を袖を交はした君の意
であつて、つまり、袖を相交はして寐(ね)たことを言ふのである。『玉だれ
の』は小市(をち)(地名)の枕詞、『過ぎぬ』は死去の意である。一首の意は、
泊瀬部皇女の昨日まで袖を相交はして寐(い)ね親しんだ君が、忽(たちま)ち
にして小市野に過ぎてしまはれた。(小市野は墓所のある所である)此の世で再
び相見ることがあらうか。相見ることは出来ないといふ歎息の意を現して、皇女
の身の上に同情を濺(そそ)いだのである。劈頭(へきとう)、直(ただち)に
敷妙の袖を交はして相寐たことを叙して、同棲親愛の現実感を提示し、それが忽
ちにして小市野に殯宮の主(ぬし)となられたことを叙して、目前世相の転変速
かなるを歎き、更らにそれを押し進めて、九泉の門一たび掩(おほ)へば再見す
るに由なきの感慨に入つて、人間の無常観に痛切な息を吹き入れてゐるのであつ
て、一首の情よく人生の根底所に潜入し得て、而(し)かも現実の熱烈な執着か
ら離れてゐないところ、宛(さなが)らに生ける人麿の命に面接するを覚えしめ
る程の歌であり、人麿作中の尤(もつと)も傑出せるものの一であらうと思はれ
る。この歌、それほどの命を持ち得てゐるのは、人麿の感慨が、よく一首声調の
上に徹し得てゐるからである。声調に徹し得て居ないうちは、歌の表現に徹し得
てゐないのであつて、これは屡々(しばしば)言ひ及んだ所である。歌の内容は、
事件や事象である。事件や事象に息を吹き入れるものは声調である。声調によつ
て事件事象は生き或(あるい)は死ぬ。一首活殺の力を有するものは常に声調で
ある。この消息を解せぬものが、歌に盛られた事象や思想を捉へて歌の価を品隲
(ひんしつ)する。それは未だ歌の命に到達するに遠いものである。人麿のこの
歌の傑(すぐ)れてゐる所以(ゆえん)も、一首の声調にあるのであつて、第二
句『袖易へし君』と切り、第四句『小市野に過ぎぬ』と切り、更に句を起して
『又も逢はめやも』と結んでゐる。この三ヶ所で切れてゐる句法は、人麿の切実
なる歎きの息が、自然に左様な断絶を成さしめたのであつて、息づかひと調べと
一如になつてゐるといふ心地がする。それゆゑ、三ヶ所で切れてをる句と句との
間に、自(おのづ)から無声の歎きが籠り、その歎きの籠りが、無常世相の底に
通じて、人生の究極所を思はしめるに足りるほどの力になつてゐるのである。一
首の情よく無常相に潜入し得てゐるというたのは夫(そ)れを指したのである。
特に『小市野に過ぎぬ』と一旦第四句で切つて、更に『又も逢はめやも』と句を
起し且(かつ)結んでゐる勢は、後世者なる我々の頭(かうべ)を垂れて肝銘す
べき所であらう。『又逢はめやも』と七音にするのが普通であるのに、『又も逢
はめやも』と『も』の感歎詞を入れて八音としてゐるのも、斯(か)くせずして
は居られなかつた人麿の感慨を想ふべきであつて、八音の結句、実によく一首の
声調の重きを受け、且、結び得てゐる。猶、この歌、以上説けるが如き感慨を現
し得てゐながら、一首の中の何処(どこ)にも主観句を用ひてゐないことに注意
すべきである。深く由々しき主観は、主観句などの併列によつて容易に現される
ものではない。この所、今の歌人に往々取り違へがあるやうである。要は全心を
集中して写生に専念すればいいのである。この歌、現実への執着といひ、無常相
への潜入といふもの、皆事象に対する全心集中によつて、おのづから写生の要核
に入り得てゐるからであつて、直観的の生ま生ましき気氛(きふん)が我々の身
辺に迫るを覚えしめるのは、全く写生が至境に入り得てゐるためである。


9月5日
伊藤博『萬葉集釈注 四』によれば、
「一首は、
  家にひきこもってばかりいると気がふさぐので、
  気晴らしに外に出て耳を澄ますと、
  もうひぐらしが来て鳴いている。
の意。晩夏の鬱情を詠んだ歌である。ひぐらしの声によって作者のいぶせさはさ
らにつのったのであろうか、それとも心澄んでなぐさめられたのであろうか。し
ばしは澄んで、やがてまたわびしさに沈んでゆくのであろう。
 あわれなしんみりした歌で、家持初期の作の中で異彩を放つ。後年の作にみら
れる物のあわれがかなりはっきりした形で芽を吹きはじめている。第四句の『出
で立ち聞けば』は、滅入(めい)る心を払うために四囲の風物に意識を集中した
ことを正直に示す表現である。結句の『来鳴く』には、だし抜けにひぐらしの声
を聞いた感動がこめられているのかもしれない。ひぐらしの声は幼い者の心にも
しみこむようにせつなく鳴くもので、筆者も、信州の寒村の夕刻に、人気のない
空間を振わせて鳴くこの蝉の声に、つい涙を落とした経験がいくたびかある。こ
の蝉たちは、近くと遠くとで、一定の間(ま)を置きながら、呼びかわすように
気高く鳴くのである。その時、かれらの鳴き声以外、宇宙に音がないのが不思議
である」。


9月7日
稲岡耕二選「万葉集名歌事典─万葉名歌百首」(『万葉集事典』〈学燈社〉所
収)中の、中川幸広氏執筆の項によれば、〔以下引用〕
[歌意] 秋の田の稲穂の上にたちこめる朝霞のようにいつになったらこの私の
恋の思いは消えていくのだろうか。私の胸の思いは晴れることがない。
[鑑賞] 「磐姫皇后、天皇を思(しの)ひてたてまつるみ歌四首」の題詞をも
ち、巻二の冒頭を飾る一連の歌の第四首目である。標目の時代は仁徳天皇の御代。
これを信ずれば万葉集中最古の作ということになるが、諸注、これを磐姫皇后に
仮託した作ととる。第一首の左注に「右の一首の歌は、山上憶良臣の類聚歌林に
載す」とある。『類聚歌林』の成立は憶良が東宮の侍講となった養老五年(72
1)ごろであろうから、この時までに宮廷に伝承された磐姫皇后の歌は85番歌
〔「君が行き日(け)長くなりぬ山尋ね迎へか行かむ待ちにか待たむ」─本集1月
16日掲載〕のみであったと考えていい。この四首は山田孝雄『講義』が指摘した
ように、漢詩的な起承転結をもち、緊密で有機的な構成を展開して、夫の帰りを
待ちわびて思い乱れる切ない妻の心を流麗なしらべでもってうたいあげている。
万葉集に短歌の連作を見るのは人麻呂以後であるので、作者を持統朝の歌語り作
家人麻呂に擬す見方もあるが、二首目以後が『歌林』の後の作であるとすれば寧
楽朝人の作者が第一首をもととして創作した可能性が高い。光明子立后の詔(天
平元年)に、皇族ではない女性が皇后になった先例として磐姫があげられる。そ
のため、直木孝次郎『夜の船出』が言うように、記紀の猛妻磐姫像を、貞淑で献
身的な女性像に仕立て直して良き先例にする必要もあったのかもしれない。この
歌上三句は下句のはれやらぬ心情全体の喩としてはたらく美しい序である。序詞
を直接受けるつなぎことばをもたず、メタファーとして洗練された詩的世界をつ
くる。稲岡耕二が言うように人麻呂にも見出せない後期の修辞技法である(『万
葉集の作品と方法』)。「いつへの方」は、古来難解な語句であるが、恋の比喩
であるので時間に力点をおいて考えたい。「我が」は恋にかかるので集中の他の
例から「ア」とよむべきである。

「霧らふ」について、島木赤彦『万葉集の鑑賞及び其批評(前編)』(岩波版)
はこう言っている、〔以下引用〕
「霧らふ」は地や空の水気(すいき)の朧ろに立ちこめることであつて四段活用
の動詞である。霧らん、霧り、霧る、霧れ、と働き、第二段霧りの活用が名詞に
なつて、今日は霧(きり)といふ名詞が普通に用ひられてゐる。万葉時代にあつ
て、霧霞などの語は、古今集以後の如く観念的なものになつて居らず、春でも秋
でも霧霞は存在し得たのであつて、その用法極めて自然であつた。秋の稲田の穂
の上にぼうつと霧(き)らうてゐる朝霞は、晴るるが如く、晴れざるが如く、日
光の徹(とほ)るが如く徹らざるが如く、何(いづ)れとも頼(よ)るべなき心
持を伴ふ。斯(かく)の如き自然の光景の微細所を捉へて、これほど簡単な現し
方をしてゐるのは驚異とすべきである。


9月8日
多田一臣編『万葉集ハンドブック』(三省堂刊)の「第二部 万葉秀歌」─「第四
期の和歌」(多田一臣氏執筆)によれば、
題詞「笠女郎の大伴宿祢家持に贈れる歌二十四首」の一首、
「極端な誇張のみられる歌。『浜の沙(まなご)』は物の数の多いことの譬(た
と)えだが、ここはさらに『八百日行く浜の沙』であるという。わが思いはそれ
以上だ、というのが一首の意。切実さが感じられはするものの、その思いはどこ
か突き放されたような印象を残す。誇張のなせるわざだろうか。『沖つ島守』は
沖合の島の防備にあたった番人。ここはその『島守』を恋の審判者に見立て、自
身の愛のつよさの確認を求めている。孤独な『島守』にわが思いへの共感を求め
たとする説、家持への揶揄(やゆ)をみる説があるが、単なる傍観者以上に、な
んらかの特別な役割が意識されていた可能性もある。この語も『万葉集』中一例
のみ。『わが髪の雪と磯べの白波といづれまされり沖つ島守』という一首が『土
佐日記』に見えるが、女郎の歌の影響とみてよいだろう。『拾遺集』には『八百
日行く浜の真砂(まさご)と我が恋といづれまされり沖つ島守』(よみ人知らず 
恋4・889)とあり、この歌の流伝のさまがうかがえる」。


9月9日
新日本古典文学大系『萬葉集 三』によれば、
口語訳「世の人の寝る満ち足りた眠りはせずに、いとしいあなたを見るだけでも
と願って、嘆いている」。


9月10日
「東歌未勘国歌」の一首。

水島義治『校註万葉集東歌・防人歌』新増補改訂版によれば(以下、摘記引用)、
彼の児ろと──あの子と。
はだ薄──枕詞。ここは薄の末(ウラ)の意から次句の宇良野にかかると見られ
る。
宇良野の山に月片寄るも──宇良野の山に月が傾いていることよ。「宇良野の
山」は長野県小県郡浦野町にある山か(吉田東伍『大日本地名辞書』)。「浦
野」は和名抄・延喜式に見える。松岡静雄『萬葉集論究第二輯』は地名とせず
「裏野の山」とする。つく(月)はツキの訛りではなく古形であるとも。


9月11日
伊藤博『萬葉集釈注 二』によれば、
「額田王の488は、
  あの方のおいでを待って恋い焦がれていると、
  折しも家の戸口のすだれをさやさやと動かして
  秋の風が吹く。
という意。すだれのそよぎにも胸をはずませて人を待つ歌。次歌〔489〕ととも
に、八・1606〜7に重ねて登録されている。巻八では秋風の恋歌として、重出を
承知の上で載せたもので、すでに当時とくに名声を馳せた歌であったらしい」。

〔明日に続く〕


9月12日
〔承前〕
「鏡王女の489は、
  ああ秋の風、その風の音にさえ
  恋心がゆさぶられるとは羨ましいこと。風にさえ
  胸ときめかして、もしやおいでかと待つことができるのなら、
  何を嘆くことがありましょう。
の意と思われる。自分には訪れてくれる人のあてもない物足りなさを述べて前歌
に和した歌である。
 鏡王女ははじめ天智天皇の妻の一人となった女性(二・91〜2〔本集5月17、
18日掲載〕)。のち、藤原鎌足の正妻となって不比等を生んだ(『興福寺縁起
』)。額田王に吹く風はその向こうに天智天皇を持つ。しかし、関係がなくなっ
た鏡王女に吹く風の向こうにはその人を期待することができない。風は永遠の絶
縁を載せて吹くばかりである。それに比べれば、あなたは何を嘆くことがありま
しょうというのである。
 この二首は不思議な歌である。王朝閨怨の情緒にも似るみやびの歌風に、『萬
葉集』、それもそのごく初期のものとはとうてい思えない感覚が漂っている」。

伊藤博『萬葉集釈注 二』ではこのあと、「この不思議は、」と説得力ある考察を
加えている。


9月13日
新日本古典文学大系『萬葉集 二』によれば(摘記引用)、
題詞「山口女王の、大伴宿祢家持に贈りし歌一首」、
「上三句は『落つ』を導く序詞〔「……露が、風が吹いて落ちるように涙は落ち
て」──口語訳より〕。露から涙を連想すること、平安時代の和歌では普通であ
るが、万葉集ではこれが唯一の例」。

作者山口女王は伝未詳、他に同じような題詞の「山口女王の、大伴宿祢家持に贈
りし歌五首」(613〜17)が巻四にある。


9月14日
新日本古典文学大系『萬葉集 一』によれば(摘記引用)、
長歌「神岳(かみおか)に登りて、山部宿祢赤人の作りし歌一首」の反歌。
「第三句まで、第四・五句全体の譬喩の序詞。『思ひ過ぐ』は、思いが過ぎ去っ
て行く意で、忘れると同義。『恋』は明日香旧都に対する懐旧恋慕の情」。
長歌では、「…… 明日香の 古き都は 山高み(山が高く) 川とほしろし
(川が雄大だ) 春の日は 山し見がほし(山が見たい) 秋の夜は 川しさや
けし(川音がさやかだ) 朝雲に 鶴(たづ)は乱れ(鶴は乱れ飛び) 夕霧に 
かはづはさわく(河鹿は鳴き騒ぐ) ……」と歌われている〔口語訳を適宜挿
入〕。


9月16日
伊藤博『萬葉集釈注 一』によれば、
口語訳「身悶えして恋死にすることはあっても、この思いをはっきり顔色に出し
たりはいたしますまい。朝顔の花みたいには」。

新編日本古典文学全集『萬葉集 3』によれば、
「朝顔が花──〔今の何の花を指すか諸説あるなかの、桔梗(ききょう)や槿
(むくげ)ではなく、今の朝顔と同じ〕牽牛子(けにごし)をさしたのであろう。
その花の大きく色鮮やかなさまをもって色ニ出ヅの比喩とした」。

臥いまろび──原文「展転」。「輾転反側」の「輾転」に同じ。「展伝」とする
写本もある由。これも同じ。
いちしろく──原文「灼然」。。


9月17日
伊藤博『萬葉集釈注 一』によれば、
「一首は、
  今年出かけて行く新しい島守たちの麻の衣、
  その衣の肩のほつれは、いったい誰が繕ってやるのであろうか。
の意。〔(補注)麻の衣は貧しい衣服とされた。〕裏に、誰も繕ってやる者はい
ないのにの意がこもっている。一般論としてうたわれているけれども、いとしい
人またはいとしい子どもを防人に送り出す女の立場での詠と見ることもできる。
鴻巣盛広『萬葉集全釈』に、『新防人として筑紫へ赴く若者の上を気づかつて、
その母か妻かが詠んだもので、肩のまよひを心にかけたのは、女性の作らしく思
はれる。真情の溢れた佳作である』と評しており、諸注、おおむね従っている。
 『島守』は『防人』に同じ。諸国の軍団の兵士の中から選ばれ、筑紫・壱岐・
対馬の辺境の守備に当たった。のち、東国からの派遣に傾く時期があり、その折
の歌が巻二十にたくさん載っている。任期は三年交替であったが、かならずしも
守られなかった。防人のことについては、軍防令に詳しい。初期の防人について
は、天智紀三年の条に『是(こ)の歳、対馬嶋、壱岐嶋、筑紫国等に防(さきも
り)と烽(とぶひ)とを置く』とある」。


9月18日
新編日本古典文学全集『萬葉集 4』によれば(摘記引用)、
「丈部稲麻呂──伝未詳。
頭かき撫で──出発の際に作者の頭を撫でたことをいう。
幸くあれて──サキクアレトの訛り。
言葉ぜ──コトバゾの訛り。
○〔駿河国の防人部領使(さきもりがことりづかひ)の守(かみ)が進(たてま
つ)った歌の意を含む左注に関連して〕天平九年(737)に防人を本郷に帰した
時、翌十年の駿河国正税帳に同国を通過した兵士の数が記されているが、それに
よると、伊豆二十二、甲斐三十九、相模二百三十、上総(後の安房を含む)二百
五十六、下総二百七十、常陸二百六十五という数字であった」。


9月19日
妹──妻。旅人の大宰帥着任後間もなく病死(万葉集事典)。
帰るさ──「さ」は「(動詞の終止形に付いて)時・場合の意を添える」(例解
古語辞典第二版)。

斎藤茂吉『萬葉秀歌』によれば、
「〔太宰帥大伴〕旅人が〔天平二〈730〉年冬十二月、大納言になつたので〕帰
京途上、摂津の敏馬海岸を過ぎて詠んだものである。……
 この歌は、余り苦心して作つてゐないようだが、声調にこまかいゆらぎがあつ
て、奥から滲出(にじみい)で来る悲哀はそれに本づいてゐる。旅人の歌は、あ
まり早く走り過ぎる欠点があつたが、この歌にはそれが割合に少く、さういふ点
でもこの歌は旅人作中の佳作といふことが出来るであらう。旅人は、讃酒歌のや
うな思想的な歌をも自在に作るが、かういふ沁々(しみじみ)としたものをも作
る力量を持つてゐた。なほこの時、『往くさには二人吾が見しこの埼をひとり過
ぐれば心悲しも』(450)といふ歌をも作つた。やはり哀深い歌である」。


9月20日
島木赤彦『万葉集の鑑賞及び其批評(前編)』(岩波版)によれば、
「萩の夏芽伸びて、そろそろ莟(つぼみ)をもつ時が近づいた。その萩を見て
『秋風の吹きなむ時に咲かむと思ひて』と言うたのであつて、作者が萩と合致し
て、自ら萩の心になつて歌つてゐる所甚だ自然であつて、よい心持がするのであ
る。斯(かか)る歌は往々不自然な気取りになり易いのであるが、無邪気な作者
の心が『咲かむと思ひて』の如き幼ない句法となつて現れてゐるために反感を起
させるやうなことなく、安らかに作者の心に同(どう)じ得るのである。この結
句は、単に、幼なく無邪気といふばかりでなく、同時に生気あり緊張ありて、声
調より言ふも、一句よく全体に響き返すに足る力を持つてゐる。『我が宿の』な
ど一見何でもない句が、ここでは非常に親しみを持つ句になるのは不思議である。
『萩のうれ長し』と第二句に簡明直截(ちょくせつ)な切り方をしてゐることも、
この歌の命を考へるに大切である。それあるゆゑ、第五句がここまでぴんと響き
返すのである。これを意義の上から言ふも、『萩のうれ長し』ありて第五句生き、
第五句ありて『萩のうれ長し』が生きる。この辺の関係微妙であつて、すべての
関係相倚(よ)つて渾然一如の命となり得てゐるのは、写生の真に入り、神(し
ん)に入れるより来るのである」。


9月21日
稲岡耕二選「万葉集名歌事典─万葉名歌百首」(『万葉集事典』〈学燈社〉所
収)中の、毛利正守氏執筆の項によれば、〔以下引用〕
[歌意] 夕月の淡い光の下で、心もうちしおれるほどに、白露のおくこの庭で
こおろぎが鳴いていることよ。
[鑑賞] 「心もしのに」とは、しみじみと感傷にひたる心のさまをいう。この
語句は、自らの心の動きを修飾するにも、情景を修飾するにも用いられる。柿本
人麻呂の名高い「近江の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのに古思ほゆ」(三・
266)〔本集12月1日掲載予定〕などは情景に誘発されながら、心の動きを修飾し、
湯原王のこの歌はひとまず情景を修飾する。「心もしのに」のことばが修飾・限
定するのは、普通、一つの事象についてである。短歌で、四句目に「心もしの
に」を置いて結句を修飾する形が一般にとられるのもそのためである。湯原王が
二句目にこれを置くのは、その意味で、この歌を特色あるものにしているといえ
よう。初句に「夕月夜」を提示したあと、対象がなお絞りこまれない二句目に
「心もしのに」を据えることによって、「心もしのに」からかもし出される気分
がそこで拡がり、歌全体に及んでいく観を呈することにもなるからである。従来、
これが「白露の置く」にかかるか「こほろぎ鳴くも」にかかるかとの議論があっ
たりしたのも、その議論自体、こうした事情によるとみてよかろう。実景に、
「心もしのに」という情感が溶けこむかたちに、われわれ読者はその実景を感傷
的なものと受けとめうるのであるが、そのことは取りも直さず、湯原王自身がか
かる実景に感傷を覚えるほどに洗練された、情緒こまやかな心をもちあわせてい
たことを語っていることになろう。あじわい深い雰囲気を漂わせた一首である。
ちなみに漢詩の世界を眺めると、すでに、月と露との情景に聴覚の蟋蟀の鳴く声
を配した作品を見ることができる。晋の潘岳(はんがく)「秋興賦」(『文選』
巻一三)などがそれである。繊細な素材は同時に悲秋の景物でもある。『古今
集』以降の悲秋を先取りした感のある湯原王のこの歌も、あるいはこうした中国
文学の影響のもとにあるとみることができようか」。

作者湯原王は、湯原親王とも。天智天皇の子の志貴皇子(しきのみこ)の子。
本集ではこれまでに、1月27日、3月16日にその作歌を掲載。


9月22日
昔年交替した防人の歌の意の題詞あり。

島木赤彦『万葉集の鑑賞及び其批評(前編)』(岩波版)によれば、
「年所不明の歌……。矢張りいい。『暗の夜の』は『行く先知らず』の枕詞なれ
ど、猶(なほ)遠く行く人の心を象徴してゐる。行く先さへ思ひ知られぬ我を捉
へて、何時帰り来まさんと問ふ女の心は幼いのであつて、その幼さをいぢらしく
愛しむ心は、同時に自分の運命の果敢(はか)なさを悲しむ心である。その心持
がよく現れてゐる。矢張り、結句に力があるやうである」。

子ら──「ら」は複数でなく親愛の意を表す接尾語。
はも──「(連語)《上代語。「は」「も」は、ともに終助詞》強い感動・詠嘆
を表わす。…よ。…なあ。…はまあ」(例解古語辞典第二版)。


9月23日
伊藤博『萬葉集釈注 二』によれば、
題詞「藤原宇合大夫(ふぢはらのうまかひのまへつきみ)、遷任して京に上る時
に、常陸娘子が贈る歌一首」
「一首は、
  庭畑に茂り立っている麻を刈って干し、織った布を日にさらす
  東女、この田舎くさい東女のことをお忘れ下さいますな。
の意。庭で働く女という、いかにも東国らしい風物を詠みこむことで送別の意を
表わした歌。作者の常陸娘子はおそらく遊行女婦(うかれめ)で、そんなに田舎
娘ではなかったであろう。しかし、今都へと去る馴れ親しんだ官人の前途を祝う
て、みずから田舎娘に仕立てたものと見える。送る女の作法の読み取れる心にく
い歌である」、
藤原宇合は「藤原不比等の第三子で式家の祖」、「養老三年(719)に常陸守に
任ぜられ〔遷任〕、養老五年正月頃、任果てて帰京したらしい」。

麻手──「《テはニキテ(和幣)のテと同じ》麻」(岩波古語辞典)。「『テ』
は材料をいう接尾語か。鴻巣盛広『萬葉集全釈』には『タヘの略か』とある」
(水島義治『萬葉集全注 巻第十四』3454の注中)。


9月24日
水島義治『萬葉集全注 巻第十四』(有斐閣刊)によれば(摘記引用)、
口語訳「筑波嶺にかかっている霞が動かないように、
    家の前を通り過ぎかねて溜息をついているあの人を、
    さあ連れてきて一緒に寝て帰しておやりなさいよ」、
「霞居──ここまでの上二句、霞がいつまでもかかっている様から下の『過ぎか
て』を起こす譬喩的序詞。
過ぎかてに──たまたま通ったのではなく、女の許に来た男が立ち去らずにいる
のである。『過ぎ』+『かて』+『に』。『かて』は、できる、堪える、の意の下
二段動詞『かつ』の未然形。活用形も未然形と終止形だけで、自立語としての性
格が弱く、常に補助動詞としてのみ用いられている。『に』は打消しの助動詞
『ず』の古形連用形。
率寝て──『率寝(ゐぬ)』は共に寝る。連れ込んで寝る意の複合動詞(ナ行下
二)」、
「第三者たる年長の、あるいは後見役的な女が年少の女に勧めている形の歌であ
る。なお、森本治吉は、『「あれほど惚れてんだから、満足させてやんなさい」
という歌意は、どうも日本和歌史に類例の見出せぬ題材で、内容にも表現にも野
性が満ち溢れていて、さすが東歌である』(『万葉恋歌抄』)と評している」。


9月26日
題詞に「額田王歌」、その下に注として「未詳」とあり、左注では、作歌事情に
触れて、大化四(648)年、皇極上皇が近江の比良の宮に行幸した折の「大御
歌」であるという「一書」の記述を引いている。

伊藤博『萬葉集釈注 一』によれば、
「一首をめぐっては、以下に述べるような事柄を推測することができよう。額田
王が回想する『宇治のみやこの仮廬』の地は、皇極上皇(斉明女帝)が、夫舒明
天皇の在世中、ともに近江路にいでました曽遊(そうゆう)の地であった。今、
大化四年、宇治のその地に旅宿りするにあたり、夫との思い出深い行幸を偲んで、
女帝が側近に対して懐古談を披露した。多感で利発な女性であった額田王〔この
時十八、九歳と推定〕は、斉明女帝の感愛の情をくみとって、その心境をそのま
ま歌にした。女帝は、我が意をつくした格調高くすきのない歌にいたく満足し、
王のやさしい思いやりとすぐれた歌才をほめそやした。こうして、額田王は、天
皇の『御言持ち歌人』〔「天皇の意を対しその立場で歌を詠む人」〕として活躍
する契機を与えられることになった。こういう推測が許されるならば、この歌は、
額田王の出世作で、王が、やがて初期万葉きっての才媛としてもてはやされるこ
とを確約した門出の作であったということになる。
 一首は、『思ほゆ』で結んだ回想の歌の最古の例である。眼前の景や事柄をと
らえることは、視覚を重んずる古代人の得意とするところで、そういう歌は、記
紀歌謡以来たくさんある。が、過去の思い出を歌材にして、『思ほゆ』と力強く
据えた作は、この歌がはじめてである。そういう斬新な表現を持つのがこの一首
なのだが、そうした歌が生まれてくる必然は、一首の背景を上のように推測する
ことで解けるのではないか。なお、その『思ほゆ』は、『宇治のみやこ』とか
『宇治の山』とか、『宇治の川』とかを対象としてはいない。女帝が夫舒明とと
もにこもった『仮廬』、二人のぬくもりにつながる『仮廬』が『思われる』とう
たっている。女帝のことのほかの感動を誘うのも当然であったという事情が、表
現のひだの中にも託されている」。


9月27日
伊藤博『萬葉集釈注 二』によれば、
題詞「〔天平〕七〔735〕年乙亥(きのとゐ)に、大伴坂上郎女、尼理願の死去
を悲嘆(かな)しびて作る歌一首 并せて短歌」、
「左注にいうように、大伴家の大刀自(おおとじ)で作者大伴坂上郎女の母でも
あった石川郎女(いしかわのいらつめ)が、有馬の温泉(ゆ)に湯治している留
守中に、新羅から帰化して大伴家に寄宿していた尼理願が他界したので、坂上郎
女が代わりにその葬儀をつとめたいきさつを歌に託して贈ったのが、右の長反歌
である」、 「この長反歌は、長年にわたる尼理願との親交、大刀自石川命婦(みょうぶ)の
代役を無事果たしえた安堵なども手伝ってか、なかなかの力篇で、坂上郎女の長
反歌の中で最も張りがある。死者に対する哀悼と同時に、死去に関する報告をも
兼ね、それが乱れずに統一されている。こういう挽歌は他に例がなく、万葉に異
彩をとどめることも知っておいてよいことである。讃歌の型、挽歌の型をこなし
て、堂々としている点も記憶にとどめる価値がある。異国に来て、これほどの待
遇を受けた理願という女性の幸運も思いやられる。
 長歌(460)は、
  遠いはるかな新羅の国から、日本(やまと)はよき国との
  人の噂をなるほどとお聞きになって、安否を問うてよこす
  親族縁者もいないこの国に渡ってこられ、大君のお治めに
  なるわが国には、都にびっしり里や家はたくさんあるのに、
  いったいどのように思われたのか、何のゆかりもないここ
  佐保の山辺に、泣く子が親を慕うようにやってこられて、
  家まで造って年月長く住みついていらっしゃったのに、こ
  のお人も、生ある者はかならず死ぬという定めから逃れる
  ことはできないものだから、頼りにしていた人がみんな旅
  に出て留守のあいだに、朝まだ早い佐保川を渡り、春日野
  を背後に見ながら、山辺を目指して夕闇に消え入るように
  隠れてしまわれた、それで、何を何と言ってよいのやら、
  何を何としたらよいのやらわけもわからぬままに、おろお
  ろ往ったり来たりしてたった一人で、白い喪服の袖の乾く
  間もなく、ひたすら嘆きどおしに私が流す涙、この涙は、
  あなたさまのおられる有馬山に雲となってたなびき、雨と
  なって降ったことでしょうか。
の意。
 嘆きは霧となって現われるという当代の発想を雲と雨に応用しながら結ぶ『言
はむすべ為(せ)むすべ知らに」以下十一句に集中して盛り上がる張りのみなぎ
る調べは、病身の母に襲いかかる邪霊を払いのけようとする心根にも支えられて
いるのであろうか。
 長歌を承けて、反歌(461)は、
  留めることのできない人の命であるので、住み馴れた
  家から出て、雲の中に隠れておしまいになりました。
とうたう。長歌の句を用いながら全体をまとめ、悲しみの中に静かな諦観を示そ
うとしている。
 万葉女流歌人のなした最大の力篇がこの一作と見て狂いはない」。


9月28日
伊藤博『萬葉集釈注 三』によれば、
題詞「大宰帥(だざいのそち)大伴〔旅人〕卿、凶問〔訃報〕に報(こた)ふる
歌一首」、
前文「禍故重畳し、凶問累集す〔「不幸が重なり、悪い報せが続きます」〕。永
(ひたふる)に崩心の悲しびを懐(むだ)き、独(もは)ら断腸の泣(なみた)
を流す。ただ、両君〔「都の留守を任せた二人の人物で……この二人の名で不幸
の報せがあ」った〕の大助によりて、傾命をわづかに継げらくのみ〔「いくばく
もない余命をようやく繋ぎ留めているばかりです」〕」、
「大伴旅人は、神亀四年(727)の暮れの頃、大宰帥に任ぜられて、正三位六十
三歳の身を筑紫へと運んだ。妻大伴女郎(おおとものいらつめ)や長子大伴家持
(母は不明)も一緒であった。……
 筑紫に暮らすことおよそ半年、五月の下旬もしくは六月初旬であったろうか、
旅人は都からの悲しい報せをうけた。それは、異母妹大伴坂上郎女の夫、大伴宿
奈麻呂(おおとものすくなまろ)が他界したという報せであったと推定される
(橋本達雄「坂上郎女のこと一二」〔下略〕)。旅人はその一か月ほど前の四月
初旬、楝(おうち)の花の咲く頃、京から伴った愛妻大伴女郎を大宰府で失った。
都からの凶報に接した悲しみに妻の死を報された時の傷みをこめながら作ったの
が、右の漢文の前文と歌とである」、
歌について、
「『世の中は空しきもの』は仏教語『世間空』『世間虚仮(こけ)』の翻案で、
世を『空し』と述べた、集中最初の用例。また、結句も、沈痛な悲しみをこめて
『悲しかりけり』と述懐するのは、集中これ以外にはない。『悲しき』『悲し
も』などと結ぶのが万葉の慣例であった。
 こうして、一首は鮮度に満ちあふれている。こういう深みのある歌が漢文を前
に従え、それとの連繋で心の空しさを強調しているわけで、詩の形態の面でも、
未曾有の新しさがある。……
 当面の作は、都の『両君』に書牘文(しょとくぶん)〔書簡文〕として贈ると
同時に、当時筑前国守として任にあった山上憶良にも披露されたらしい。作品の
左に記す『神亀五年六月二十三日』は、おそらくその披露された日付で、亡き妻
のための何らかの供養が行われた日であったと推定される」。

本歌に関連するものとして、6月26日掲載の山上憶良の歌とメモがあります。ご
覧ください。


9月30日
筑紫に派遣されて、水島(熊本県八代市)に渡った時の歌。

新編日本古典文学全集『萬葉集 1』によれば、
「隼人の──隼人族の住むの意で、薩摩にかかる修飾語。ハヤヒトは日向・大隅
・薩摩に住む部族で勇猛果敢、行動が敏捷なところからその名がある。大和政権
に服属せずしばしば反乱し、そのたびに朝廷から征隼人将軍が派遣された。一部
は中央に移住させられ、隼人司に属し宮廷の警護に当てられた。中世以降ハヤト
とも呼ばれる。
薩摩の瀬戸──セトは海峡。
雲居なす──雲居は雲のたなびく遠方」、
長田王は「系統未詳。……風流侍従と称せられ」る。

新日本古典文学大系『萬葉集 一』によれば、
薩摩の瀬戸は「鹿児島県出水郡の本土と天草諸島の南端長島との間の海峡。通称
『黒瀬戸』」。

島木赤彦は、「音に聞ける薩摩の瀬戸を雲ゐの如き遠きほとりに我は今日見たと
嘆じたのであつて、作者が、高所に立つて、目を天の一方に放ちつつ、国土の果
てを望み見てゐる心持がよく現れてゐる。劈頭(へきとう)目ざす所を提示して、
雲ゐなす以下連続して一気に押してゆく句法の由々しさを見るべく、『吾れは』
『今日』と語々現実の感じを引き緊めて行く力を想ふべきである」(『万葉集の
鑑賞及び其批評(前編)』)と言っている。





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